2021年1月1日 / 最終更新日 : 2021年1月1日 サイトスタッフ 宗学コラム 安房小湊で人間日蓮を思う 本尊問答抄 日蓮は東海道十五箇国の内、第十二に相当たる安房国長狹郡東条郷片海の海人が子なり 今、安房小湊の内浦湾を望む高台に立つと、眼下に茫々たる太平洋の大海原を眺め、凛とした空気の中にもきらめく陽光に包まれて早、春の到 […]
2020年12月30日 / 最終更新日 : 2020年12月30日 サイトスタッフ 宗学コラム 「教主釈尊より大事なる行者」をめぐって 物事の見方というのは、特定の立ち位置からだけではなく、最近誰かが使っていたけれども、総合的俯瞰的に見るのは大切だとは思います。 一つの見解を表明するのにも、対する側の論理で詰めてみて、それに耐えられるだけのものなのか否か […]
2020年11月8日 / 最終更新日 : 2020年11月8日 サイトスタッフ 宗学コラム 佐渡期の外部批判(7)・私論 投稿者:鬼滅の言 或る人云く唯教門計りなりと 寺泊御書 御書p.953 寺泊御書に記された4番目の批判です。 教門(教相)は観心に対する語で、日蓮大聖人は、ただ教門ばかりで観心が説かれていない。それは形だけの信心であり、 […]
2020年11月3日 / 最終更新日 : 2020年11月3日 サイトスタッフ 宗学コラム 佐渡期の外部批判(6)・私論 投稿者:鬼滅の言 或る人云く我も此の義を存すれども言わずと云云 寺泊御書 御書p.953 寺泊御書に記された3番目の批判です。 日蓮大聖人が説く法門は特別な法門ではない。法華経を読めば分かることであり、特に何か言うことは […]
2020年10月27日 / 最終更新日 : 2020年10月27日 サイトスタッフ 宗学コラム 佐渡期の外部批判(5)・私論 投稿者:鬼滅の言 或る人云く勧持品の如きは深位の菩薩の義なり安楽行品に違すと 寺泊御書御書p.953 勧持品の折伏行は深位の菩薩の修行であり、初心の行者である日蓮は安楽行品の摂受の修行をすべきである。その批判に日蓮大聖人 […]
2020年10月20日 / 最終更新日 : 2020年10月20日 サイトスタッフ 宗学コラム 安房国清澄寺に関する一考 42【完】 12 代々の住持一宗の相続に非ず 鎌倉時代、別当は「名ばかりの」清澄寺ではありましたが、虚空蔵菩薩求聞持法を行う霊場としての喧伝は室町時代後期に至るも続いており、文明15年(1483)4月、高野山で沙門鏡心が書写した「慈 […]
2020年10月19日 / 最終更新日 : 2020年10月19日 サイトスタッフ 宗学コラム 安房国清澄寺に関する一考 41 【 東条景信による清澄・二間の寺領侵犯 】 清澄寺が特定の宗派ではなかったことの参考になると思われるのが、先に見た「清澄寺大衆中」の「故いかんとなれば、東条左衛門景信が悪人として清澄のか(飼)いしゝ(鹿)等をか(狩)りと […]
2020年10月18日 / 最終更新日 : 2020年10月18日 サイトスタッフ 宗学コラム 佐渡期の外部批判(4)・私論 投稿者:鬼滅の言 或る人云く勧持品の如きは深位の菩薩の義なり安楽行品に違すと 寺泊御書 御書p.953 勧持品で説かれる三類の強敵と闘う折伏行は深位の菩薩の修行で、日蓮は深位の菩薩ではない。初心の者は安楽行品の「楽つて人 […]
2020年10月18日 / 最終更新日 : 2020年10月18日 サイトスタッフ 宗学コラム 安房国清澄寺に関する一考 40 11 「名ばかり」の別当 【 別当御房御返事 】 清澄寺の別当職とはどのようなものだったのでしょうか。 ここで「別当御房御返事」(文永11年5、6月頃)を確認してみましょう。 本文 聖密房のふみにくはしくかきて候。よりあ […]
2020年10月17日 / 最終更新日 : 2020年10月17日 サイトスタッフ 宗学コラム 安房国清澄寺に関する一考 39 10 台密系の別当は 若き日は天台・台密の法脈に連なっていた日蓮大聖人が清澄寺別当就任を要請されていることからして(文永11年5・6月頃「別当御房御返事」)、大聖人の時代には天台・台密系の別当もいたと考えられます。 その […]