安房国清澄寺に関する一考 41

【 東条景信による清澄・二間の寺領侵犯 】

清澄寺が特定の宗派ではなかったことの参考になると思われるのが、先に見た「清澄寺大衆中」の「故いかんとなれば、東条左衛門景信が悪人として清澄のか(飼)いしゝ(鹿)等をか(狩)りとり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせしに、日蓮敵をなして領家のかたうど(方人)となり、清澄・二間の二箇の寺、東条が方につくならば日蓮法華経をすてんとせいじょう(精誠)の起請(きしょう)をかいて、日蓮が御本尊の手にゆ(結)いつけていの(祈)りて、一年が内に両寺は東条が手をはなれ候ひしなり。此の事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給ふべき。」との記述です。

東条景信の清澄・二間の寺領侵犯等、領家方への行為は傍若無人なものとはいえ当事者同士による話し合いで解決できるものではなく、領家方は地頭による不正侵犯事件として鎌倉の問注所に持ち込んだと考えられます。

文中、「せいじょう(精誠)の起請をかいて、日蓮が御本尊の手にゆ(結)いつけていの(祈)りて」とあり、日蓮大聖人は領家の味方をして起請文を書いて祈り、後年門下の法廷闘争のアドバイスをしていることからも(※2)、この時も裁判において種々の指南をしたことでしょう。

私としては建長5年に「法門申しはじめ」て以降、鎌倉に居住していた時に大聖人は裁判に関わり、この頃、故郷の清澄寺と二間の寺は一年近く念仏者の地頭・東条景信の手の内にあったものと考えています。「念仏者の所従にし」「東條が手」の意味するところは、清澄・二間の寺が直ちに浄土教の寺院になったということではなく、表向きは念仏者・東條景信の意向に逆らえない状態となっていた、強い影響下にあったということだと思われるですが、清澄寺の東密の法脈は法鑁、寂澄の事跡に見られるように覚鑁の新義系であったと考えられ、仮に念仏を迫られたとしても違和感はなかったでしょうし、台密系の僧もまた同じことでしょう。

ただ東条景信のやり方は強圧的で、「清澄のかいしゝ(飼鹿)等をかり(狩)とり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせし」(同)等と乱暴をなした背景には、日蓮大聖人と同時代の清澄・二間の寺は比叡山や東寺など強大な寺社勢力とのつながりを感じさせるものに欠けていた、「天台」または「真言」という「特定の宗派色」が薄かったということがあるのではないでしょうか。

尚、文中の起請文を書いて「御本尊の手にゆ(結)いつけて」の「御本尊」とは何か?は気になるところです。

まず地頭・景信による侵犯事件に対して、日蓮大聖人が裁判に関わることになった時期をもう少し考えてみましょう。これは、大聖人が鎌倉の問注所での処理に関わることが可能だった時のことと考えられるので、その身が鎌倉にあった時のことになり、建長8年(1256)8月から伊豆へ配流される前の弘長元年(1261)前半、または赦免された弘長3年(1263)2月から文永元年(1264)秋に故郷の安房国を訪れる以前の、二つのどちらかということになります。

このうち前者は、鎌倉における法華勧奨初期なので、法華経の弘法、題目の宣布が中心だったことは容易に想像されます。また鎌倉進出翌年の正嘉元年(1257)には8月、11月と続けて大地震が起き社寺は一宇も残さず倒壊、正元元年(1259)春には大飢饉となり大疫病が発生しています。この惨状を受けて、日蓮大聖人は文応元年(1260)7月16日に「立正安国論」を北条時頼に提出。このような時期に、故郷の寺院等をめぐる訴訟に関わる余裕がどの程度あったでしょうか。

故に後者の方が可能性としては高いのですが、特に文永元年(1264)11月11日の東条松原の襲撃事件の動機として、「日蓮が指導した法廷闘争に敗れた」というものは、気の荒い武士をして日蓮大聖人に害を加えることを決意させるに十分なものであったと思われ、「一年が内に両寺は東条が手をはなれ」と符合することからも、弘長3年(1263)2月に伊豆より鎌倉に戻って以降、文永元年(1264)秋までの間に、大聖人は領家の味方をして裁判に関する種々の指導をしたのだと考えています。

この「侵犯事件」について、日蓮の「立教の年・建長5年より前」との説もあるようですが、どうでしょうか。そもそも大聖人が師匠・道善房より「捨てられ」たのは、「法華経最第一」を説示してから念仏者の地頭である景信が道善房や関係者を圧迫したことが背景にあり、清澄寺で弟子を持ち各地に修学生として派遣させられるだけの力量のある道善房が地頭を恐れ、容易に圧力に屈したことが、「清澄・二間は恐れるに足らず」との認識を東条景信に抱かせ、清澄・二間の寺への侵犯を強めたのではないかと考えるのです。

「報恩抄」建治2年7月21日

故道善房はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはな(離)れじと執せし人なり。地頭景信がをそ(恐)ろしといゐ、提婆・瞿伽利(くぎゃり)にことならぬ円智・実城が上と下とに居てをど(嚇)せしを、あながち(強)にをそれて、いとをしとをもうとし(年)ごろの弟子等をだにも、す(捨)てられし人なれば後生はいかんがと疑う。

「本尊問答抄」弘安元年9月

故道善御房は師匠にておはしまししかども、法華経の故に地頭におそれ給ひて、心中には不便とおぼしつらめども、外にはかたきのやうににくみ給ひぬ。後にはすこし信じ給ひたるやうにきこへしかども、臨終にはいかにやおはしけむ。おぼつかなし。地獄まではよもおはせじ。又生死をはなるる事はあるべしともおぼへず。中有にやただよひましますらむとなげかし。貴辺は地頭のいかりし時、義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば、何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして、生死をはなれさせ給ふべし。

景信の侵犯事件が建長5年以前で、それまでに裁判の決着がついていれば、日蓮が「法門申しはじめ」て以降、景信は清澄・二間の寺院に関することに手を出せません。ところが日蓮大聖人の記述では、師匠・道善房は地頭を恐れて弟子である日蓮を「す(捨)て」ています。ということは、清澄・二間の寺は地頭・東条景信の影響下にあったということになり、「立教の年・建長5年より前」との説には疑問を抱かざるを得ません。

随分と前置きが長くなってしまいましたが、本題の「御本尊の手にゆ(結)いつけて」の「御本尊」については、日蓮大聖人が裁判に関わったのが弘長3年(1263)2月、鎌倉に戻ってから文永元年(1264)秋までの間と考えられるので、この時期の「御本尊」は伊豆期以来「随身仏」として側にあった「釈尊像」ということになります。

日蓮大聖人は「清澄・二間の二箇寺が東条方についてしまうならば法華経を捨てよう」と心より誓って起請文を書き、釈尊像の手に結び付けて祈り続けたということなのでしょう。

※2「四條金吾殿御返事」 建治3年

だいがくどの(大学殿)ゑもんのたいうどの(右衛門大夫殿)の事どもは申すままにて候あいだ、いのり叶いたるやうにみえて候。はきりどの(波木井殿)の事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば、いかんがと存じて候いしほどに、さりとてはと申して候いしゆへにや候けん、すこししるし候か。