佐渡期の外部批判(4)・私論

投稿者:鬼滅の言

或る人云く勧持品の如きは深位の菩薩の義なり安楽行品に違すと

寺泊御書 御書p.953

勧持品で説かれる三類の強敵と闘う折伏行は深位の菩薩の修行で、日蓮は深位の菩薩ではない。初心の者は安楽行品の「楽つて人及び経典の過を説かざれ亦諸余の法師を軽慢せざれ」との教えを実践すべきで、日蓮はこの教えに相違している(意訳)

深位の菩薩ではないとの批判。

勧持品の折伏行ではなく、安楽行品の摂受の修行をすべきであるとの批判。

先ず、深位の菩薩ではないとの批判について考えてみます。

下山御消息には「初心の行者・深位の菩薩の様に」(御書p.346)とあり、深位の菩薩に対する語として初心の行者が用いられています。

深位の菩薩でないとは、初心の行者であるということになります。

深位の菩薩とは五十二位の修行の段階が進んだ菩薩を指す語句ですが、高僧とか高貴な僧侶という意味合いもあると考えると、日蓮大聖人は初心の行者であり、高僧や高貴な僧侶ではないとの批判になります。

このような批判に対し大聖人はどう答えられたのか?佐渡御書にはこうあります。

日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり(中略)
心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり

佐渡御書 御書p.958

日蓮は今生には貧しく下賎の者と生まれ、旃陀羅の家より出たのである。心こそ少し法華経を信じたようであるが、身は人身にして畜生の身である。(中略)
心は法華経を信ずるゆえに梵天・帝釈でさえも恐ろしいとは思わなかった。しかし身は畜生の身である。外見と心とが不相応であるが故に愚者が侮るのも当然である。(意訳)

大聖人のお心は法華経を信じているが故に梵天帝釈(ここでは権力者を指す)をも恐ろしいとは思わなかった。しかし外見は貧窮下賤の者である。

外見と内面が不相応(アンバランス)であるので大聖人を外見で判断する人、大聖人のお心が分からない人は大聖人を馬鹿にするのも無理はないと大聖人は説かれています。

私は佐渡御書のこの御文が答えに当たると思います。

そして佐渡御書のこの御文を思う時、佐渡御書の前月に表された開目抄の意義、そして重要性があると思います。

次に『摂受と折伏 』、修行に対する批判ですが、次回、考えたいと思います。