座談会御書 四条金吾殿御返事(不可惜所領の事)2025年(令和7年)12月度

〈御 書〉

御書新版1583㌻10行目~12行目
御書全集1163㌻15行目~1164㌻1行目

〈本 文〉

一生はゆめの上、明日をごせず。いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給うべからず。されば同くはなげきたるけしきなくて、此の状にかきたるがごとく、すこしもへつらはず振舞仰せあるべし。中中へつらふならば、あしかりなん。


〈通 解〉

一生は夢の上の出来事のようであり、明日のこともわからない。どのようなつらい境遇になっても、法華経に傷をつけてはならない。それ故に、同じ一生を生きるのであれば嘆いた様子を見せないで、日蓮がこの陳状に書いたように少しもへつらわず振る舞い、語っていきなさい。なまじへつらうならば、かえって悪くなるであろう。

〈背景と大意〉 

建治3年(1277年)7月、日蓮大聖人が56歳の時、身延で著され、鎌倉門下の中心的な存在であった四条金吾に対してのお手紙です。
同時に「頼基陳状」も書かれています。頼基陳状は四条金吾の主君である江間氏にあてたものですが、内容は宗教の正邪や僧侶と信者の在り方を示し、金吾の主君に対する姿勢と信仰者としての真摯な姿を書き記し、信仰の正邪を知り、その上で部下である四条金吾の言葉を信じるよう書かれています。
四条金吾については、親子2代に渡って江間氏に仕えていました。江間氏は鎌倉幕府の有力御家人で、四条金吾はその片腕として江間氏から信頼された人格者だったようです。身分も高く中務左衛門尉(なかつかささえもんのじょう)という役職名が付いています。この役職は朝廷から賜る称号です。大聖人は「頼基」という四条金吾の本名を書くことで江間氏に対して丁寧な対応をしたものと思われます。また四条金吾は、家族兄弟にも日蓮大聖人(法華経)への帰依を進め、揃って帰依しています。
お手紙が書かれた年より遡ること6年。 文永8年(1271年)、日蓮大聖人50歳の時、この年は6月に入っても雨が降らず干ばつが続いていました。 
日蓮大聖人は常々誤った宗教によるものだ。そのため国土が乱れていると幕府に諫言してきた通りで、まさに国土は乱れ危機的状況でした。
そんな中、幕府の庇護を受けていた真言律宗の極楽寺良観は、大衆の面前で「南無阿弥陀仏」こそ真に力のある経だと知らしめる絶好の機会と考えました。頼基陳状には「万民をたすけんと申し付け候由」と書かれていて、極楽寺良観は雨乞いの祈祷を行うと発表したのでした。
これを聞いた日蓮大聖人は、「此体(これてい)は小事なれども、此の次(つい)でに」と日蓮も祈祷を行うと極楽寺良観に伝え、「7日のうちに雨が降らなければ法華経を捨て貴方の弟子となりましょう。」とまで言われています。
これを聞いた良観は大喜びで良観も同様の約束を承諾。最初に極楽寺良観が祈祷を行い、その後日蓮大聖人という順番です。大勢の民衆の前で行われ(今風に言うと公開法論状態)、 極楽寺良観等は大勢の僧侶(120余人)を従え祈禱を始めます。(この様子は頼基陳状にも詳しく書かれています。御書全集1158頁)
極楽寺良観等の祈祷の状況が厳しいと分かるのは、「頭から煙を出し声を天にひびかし」とまで大聖人は書かれています。極楽寺良観等の坊主は真剣に祈ったが最終的に7日経っても雨は降らなかったのです。その後、日蓮大聖人の祈祷へ。 南無妙法蓮華経と唱題を始めます。結果、数日と経たずに雨が降り出し、誰の目にも勝敗が明らかに。
面子(メンツ)をつぶされ、このままでは真言律宗ひいては自分の立場が悪くなると危機感を募らせた極楽寺良観は雲隠れ。(負けたら念仏をやめ日蓮大聖人の門下になるはずが・・・)負けた腹いせに、日蓮大聖人を悪者に仕立てて信者に不信感を与え法華経(南無妙法蓮華経)の信心をやめるように仕向けていく口実を作っていったのです。
祈祷対決から3か月後には権力と結託した迫害が激しさを増す中、日蓮大聖人が居る「松葉ヶ谷の草庵」へ襲撃を実行、命に及ぶ難が続きます。悪人に仕立てあげ、罪状もでっち上げ、そのまま「竜の口」へ連行され打ち首処刑という所まで追い詰められます。
草庵襲撃を聞きつけた四条金吾は大聖人の元へ駆けつけますが、すでに捕らわれ馬に乗せられていました。四条金吾は大聖人を乗せた馬の手綱を引くことしかできず、大聖人を見守る形で竜の口へ。しかし、ここでも日蓮大聖人を亡き者に出来ませんでした。極楽寺良観は次の行動に出ます。日蓮大聖人を極寒の地、佐渡へ流罪させられます。これでは現代でいう冤罪事件です!
53歳で赦免され鎌倉に戻り、その後身延にはいられます。その間も日蓮大聖人の弟子たちへの怨嫉や生活の糧を奪うなど想像を絶する事態が起っています。日蓮大聖人が流罪させられたことで法華経の信心に疑問を持ち多くの退転者が出たと言われています。
こうした状況の中で四条金吾に対して嫌がらせ事件(冤罪事件)が勃発します。法華経に帰依して以降、最大の試練に直面することに。
事の発端は建治3年6月に行われた桑ケ谷問答です。極楽寺良観の庇護を受けていた竜象房と日蓮大聖人の弟子・三位房が法論を行い、竜象房の邪義を完膚なきまでに打ち破ったものでした。 四条金吾は法論を見守るため同席していました。この法論が終わってまもなく「四条金吾が徒党を組んで法論の座に乱入した」という讒言(デマ)が出回り、四条金吾の主君・江間氏の耳にも入り、主君の怒りを受けます。 江間氏は四条金吾に対して「法華経を捨てるとの起請文(誓約書)を書くよう迫り、書かなければ所領を没収する」と迫られたのでした。所領を没収されるということは現在で言うならば懲戒解雇に等しいでしょうか。今と違うのは、この時代は、働くどころか食べ物を手に入れるのさえ難しいと思われます。
四条金吾は、すぐに日蓮大聖人へお手紙を送り「法論の座を乱していないこと、日蓮大聖人(法華経)の信仰は捨てないとの決意」等を主君に告げたことの経緯を詳細にご報告されました。
手紙の内容から日蓮大聖人は四条金吾の置かれている厳しい状況を理解され、主君である江間氏に対して「頼基陳状」を送られます。陳状に添える形で送られたお手紙が「四条金吾殿御返事」です。四条金吾の決意に対して、少しもへつらわず(お世辞を言う、こびることなく)に堂々と振る舞い、所領を没収されることがあっても諸天の計らいと受け止めていくよう激励されています。
今回学ぶ個所の後には、更に迫害を受けても信仰を貫く誓いを立てたのは、金吾の身に上行菩薩が入ったからであろうかと最大に称賛されます。そしてどのような苦境に陥ろうとも、法華経の信仰に傷を付けてはならないと指導されています。その個所は、今回学ぶ御書の続き部分になります。

〈講 義〉

池田先生は四条金吾殿御返事について話されています。
「信念は貫き通してこそ、まことの信念となる。『信仰』の精髄はまさしく『不退転』にあります。いかなる逆境にも、ひとたび掲げた『信仰の旗』を厳然と降り続ける。その人が本当に偉大な人です。真の一流の人間です。御本仏・日蓮大聖人から称賛される『誉れの信仰者』であることは間違いありません」

「四条金吾殿御返事」を学んで私はこう思います。
一 信心に対する不退転の決意。
一 師弟共戦の決意。
一 信仰者(人)としての振舞い。

・信心に対する不退転の決意。
  御本尊根本、御書根本で行く決意をする。
・師弟共戦の決意。
  池田第3代会長を師と仰ぎ学び語り前進する決意。(自活信仰)
・信仰者(人)としての振舞い。
  どんな人に対しても誠実な振舞いをする。(対話・行動)

では今の原田学会はどうでしょうか。嘘をついて会館に呼び出して査問をし、相手の話はちゃんと聞かず一方通行の話を繰り返し、幹部の言うことを聞かないというレッテルを貼り、一方的に役職解任・活動停止など言い渡す。そこには信仰者として、同志としての、人の振舞いという姿はどこにも見当たりません。
私も10年前に役職解任・活動停止となりました。今は自活メンバーとともに「信仰の旗」を厳然と降り続け池田門下として走り抜いています。
この自活では新しくシンガポール、コートジボワールのメンバーも参加されました。
言葉は違っても求めるものは一緒です。
御本尊も御書も師匠も師匠の指導も同じです。
変わってはいけない。このことを再確認しました。
日本の我々も勇気をもらっています。
今年も残りわずかですが、油断せず事故なく新年を迎えていきましょう。

御書講義 動画サイト

創価の森

12月度座談会御書履歴

座談会御書 「松野殿御消息」2000年(平成12年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(此経難持御事)」2001年(平成13年)
座談会御書 「高橋入道殿御返事」2002年(平成14年)
座談会御書 「可延定業書」2003年(平成15年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)」2004年(平成16年)
座談会御書 「妙一尼御前御消息」2005年(平成17年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(源遠流長御書)」2006年(平成18年)
座談会御書 「新池殿御消息」2007年(平成19年)
座談会御書 「祈祷経送状」2008年(平成20年)
座談会御書 「檀越某御返事」2009年(平成21年)
座談会御書 「上野尼御前御返事(烏竜遺竜事)」2010年(平成22年)
座談会御書 「可延定業書」2011年(平成23年)
座談会御書 「檀越某御返事」2012年(平成24年)
座談会御書 「乙御前御消息(身軽法重抄)」2013年(平成25年)
座談会御書 「法華証明抄」2014年(平成26年)
座談会御書 「新池殿御消息」2015年(平成27年)
座談会御書 「檀越某御返事」2016年(平成28年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(此経難持御事)」2017年(平成29年)
座談会御書 「高橋殿御返事」2018年(平成30年)
座談会御書 「兄弟抄」2019年(平成31年)
座談会御書 「妙密上人御消息」2020年(令和02年)
座談会御書 「聖愚問答抄」2021年(令和03年)
座談会御書 「新池殿御消息」2022年(令和04年)
座談会御書 「日妙聖人御書」2023年(令和05年)
座談会御書 「阿仏房尼御前御返事」2024年(令和06年)

12月の広布史

池田先生 小説『人間革命』の執筆を開始
1964年(昭和39年)12月2日

■創価のルネサンス33
つれずれの語らい
〝執念〟が〝金字塔〟を生む
恩師の故郷―厚田での語らい

■池田大作全集第136巻
随筆 人間世紀の光P225
勝利に舞いゆく沖縄
人間革命の〝大光〟で平和の世界に

■池田大作全集第22巻P304
私の履歴書
小説『人間革命』