令和元年 12月 座談会御書

兄弟抄 建治2年4月

設ひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし、中にも日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが今は前前いひをきし事既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし、設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず

< 所感 >

共々に妙法一筋に生き抜いていこうとの、日蓮大聖人の心意気が伝わる言葉。

どこまでも一人を大切にとの、慈愛溢れる師匠のこころが感じられる書ではないでしょうか。

< 意訳 >

1.たとえどのような煩わしい、苦しいことがあっても夢の中のことであるとして、ひたすら法華経の信仰一筋に生き抜いていきなさい。

2. 中でも日蓮の法門は、立教の頃より暫くは信じ難かったようですが、

3. 今となっては前々から指摘していた自界叛逆難と他国侵逼難が現実のものとなったので、仏法に無智なる故に誹謗した人々も悔いる心が起きたことでしょう。

4. たとえこれより後に、「私も実は聖人の言うとおりだと思っていたのです」という男女が現れたとしても、あなた方兄弟に替えて思うことはできません。

< 池上兄弟 >

兄 池上宗仲、官位は右衛門大夫(うえもんのたいふ)

弟 池上宗長 兵衛志(ひょうえさかん)

父 池上康光 左衛門大夫(さえもんのたいふ) 鎌倉幕府の作事奉行 極楽寺良観の信者

< 研鑽 >

(1)たとえどのような煩わしい、苦しいことがあっても夢の中のことであるとして、ひたすら法華経の信仰一筋に生き抜いていきなさい。

・建治2年(1276)冒頭、父の康光は20年来(建長8年・1256)の信仰者・兄の宗仲を勘当。

・家督相続権が絡んでくる事態に、大聖人は弟の宗長の信仰を心配され教導を重ねる。

題名に「兵衛志」が入る御書は多数ある。

・大聖人は兄弟と夫人を心から包容して、渾身の励ましを送る。

・信仰を妨げる仏法上の働きとして第六天の魔王の働きを説示する。

「設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり、何に況んや其の已下の人人にをいてをや」

「又第六天の魔王或は妻子の身に入つて親や夫をたぼらかし或は国王の身に入つて法華経の行者ををどし或は父母の身に入つて孝養の子をせむる事あり」

※法華経信仰故の主君や親からの圧迫に関連する御書

「四条金吾殿御返事」不可惜所領事 建治3年丁7月 

「一生はゆめの上明日をごせずいかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給うべからず」

建治3年6月、鎌倉の桑ヶ谷で、日行と竜象房との対論「桑ヶ谷問答」が行われる。そこに四条金吾が参加したが、主君の江間氏は金吾が説法の座で狼藉を働いたと誤解。金吾に対して「法華経信仰を捨てる」との起請文を書くように迫る。

金吾は「所領を失うことになっても起請文は書きません」と大聖人に書状を送り、その返書での励まし。

・「夢になして」「一生はゆめの上」との表現に、難をものともしない大聖人の心意気あり。

(2)中でも日蓮の法門は、立教の頃より暫くは信じ難かったようですが、

・念仏、加持祈祷の音声が響く中で「南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸経諸宗を対治すべし」(御講聞書)です。

仏菩薩の絵像・木像に祈りを捧げる中で、「仏滅後二千二百二(三)十余年之間 一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」の妙法曼荼羅です。

数百年間の信仰の常識を覆す初期であり、「未聞の事なれば人耳目を驚動す可きか」(観心本尊抄送状)ですから当然のことです。

(3)今となっては前々から指摘していた自界叛逆難と他国侵逼難が現実のものとなったので、仏法に無智なる故に誹謗した人々も悔いる心が起きたことでしょう。

・前前いひをきし事~「立正安国論」で指摘していた自界叛逆難と他国侵逼難。

・自界叛逆難

文永9年(1272)2月の二月騒動(北条一門の内紛)で、北条時宗の命により、京都で異母兄の北条(ほうじょう)時(とき)輔(すけ)、鎌倉で名越(なごえ)時(とき)章(あき)、教(のり)時(とき)兄弟が謀反を企てたとして討伐される。

・他国侵逼難

文永11年(1274)10月の蒙古襲来。

・現実に起きたこと『現証』を見て、それも他人事ではなく、亡国の危機という我が身にふりかかるかもしれない事態になり、ようやく目を覚ました人が多いということ。

・自界叛逆難での実例

文永9年(1272)1月16~17日、塚原問答終了後、大聖人は本間重連に自界叛逆の近いことを予言する。

「日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき」種種御振舞御書、以下同

「只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか」

「二月の十八日に島に船つく、鎌倉に軍あり京にもありそのやう申す計りなし、六郎左衛門尉其の夜にはやふねをもつて一門相具してわたる日蓮にたな心を合せてたすけさせ給へ」

・『現証』ほど、分かりやすいもの、明快なものはない。

三三蔵祈雨事

「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」

(4)たとえこれより後に、「私も実は聖人の言う通りだと思っていたのです」という男女が現れたとしても、あなた方兄弟に替えて思うことはできません。

・現証を眼前としたり、知るに至って「いや、実は日蓮聖人の教え通りだと思っていまして」と、後から言ってくる人が多かったのではないか。

・自界叛逆難と他国侵逼難の的中=「日蓮聖人の警告通りだった」によるものか、建治年間に入ると弟子檀越への書簡、御本尊授与が増えており、各地で妙法弘通が活発化して日蓮一門が形作られていったことがうかがわれるようになる。

4月8日 日目が日興により得度「家中抄」(富要5―184)

4月 日朗、日向に授与と伝えられる御本尊を顕す。また日昭にも御本尊を授与。

このように日蓮一門がかたち作られていく中でも、20年にわたり信仰上の圧迫に屈することなく、妙法を唱え抜いた池上兄弟を大切に思われるとの励まし。

◇後になって「日蓮聖人の教え通り」と言ってくる人が多いであろうとの、他の記述。

上野殿御返事 建治3年5月15日

「ただをかせ給へ梵天帝釈等の御計として日本国一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんとおぼえ候」

◇妙法弘通の伸展は同時に軋轢も多くなるということ、法難のことはじめが建治年間。

「御義口伝」は弘安元年(建治4年・1278)正月1日付けであり、建治年間に大聖人の法華経講義が活発化したことがうかがわれる。師匠の法華経講義が進むほどに、弟子の日興上人による富士方面での弘教が活発化。

駿河国富士下方・滝泉寺では、この年(建治2年)、日興上人の教化による滝泉寺の住僧達、即ち三河房頼円、少輔房日禅、下野房日秀、越後房日弁らが、滝泉寺院主代・行智により「法華経読誦を停止するとの起請文」を書くように迫られ、頼円は従う。拒絶した日禅、日秀、日弁には弾圧が加えられる。日禅は河合に退出し、日秀・日弁は寺中に止宿弘教。

「滝泉寺申状」

◇師が慈愛を注ぎこむように励まし包容された兄弟・第六天の魔王の働きを教示された兄弟も、師の滅後は日朗の側、即ち「五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり」(富士一跡門徒存知の事)の側の人となる。

「師の晩年、君たちはどう生きるか」

昔も今も、問われているのはこれではないか。

◇「兄弟抄」の系年

昭和定本・全集「文永12年4月16日」

平成校定「建治2年4月」

「建治2年4月」山上弘道氏の論考「『強仁状御返事』について」(興風22号P77)

◇池上宗仲の信仰歴は長い

建長5年(1253)11月

日昭、大聖人の弟子となる

(本化別頭仏祖統記[江戸時代]・日蓮宗年表・富士年表)

建長8年(1256)

四条頼基・進士善春・工藤吉隆・池上宗仲・荏原義宗等入信と伝う

(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表・富士年表)