座談会御書「新池殿御消息(法華経随時意事)」2022年(令和4年)12月度

〈御 書〉

御書新版2056㌻5行目~8行目
御書全集1435㌻3行目~5行目

〈本 文〉

千里の野の枯れたる草に螢火の如くなる火を一つ付けぬれば、須臾に一草・二草・十・百・千万草につきわたりて、もゆれば十町・二十町の草木、一時にやけつきぬ。竜は一渧の水を手に入れて天に昇りぬれば三千世界に雨をふらし候。小善なれども法華経に供養しまいらせ給いぬれば功徳此くの如し。

〈通 解〉

広大な枯草に、小さな火を付けると、瞬く間に枯草に燃え上がり、見渡すほどの枯れ草が焼けてしまいます。竜というのは一滴の水を得て三千世界に雨を降らすといいます。
小さな火が大きく広がり、一滴の水が広く雨を降らすように、小善であっても法華経のための供養は大きな功徳となることでしょう。

〈背景・大意〉

弘安二年(1279年)、5月2日に身延で書かれ、新池左衛門尉に送られたお手紙です。
新池左衛門尉は、遠江国磐田郡新池(静岡県袋井市)に住み、鎌倉幕府の直参の武士であったと、いわれています。
亡くなった子供の追善供養のために、米三石を供養されたことに対する御返事です。
日興上人の折伏で、妻の新池尼ともに信心に励んでいたようです。
米三石は現在の重さでいうと450㎏にあたり、米俵ですと8俵程度になります。米俵8俵を、静岡県袋井市から身延まで140km、歩いて29時間あまり、およそ4日~5日かけて届けたのではないでしょうか。
大聖人が佐渡赦免となり身延に入られて5年、熱原の法難が起ころうとしている時、幕府の役人の立場で大聖人に供養することは、覚悟のできた信徒だろうと思われます。
第59世堀日亨上人の著書「富士日興上人詳伝」に、日興上人が弘安二年、秋の熱原の法難の時、「一時新池に滞在された」ことや、「新池の武人を教化した」とあることから、日興上人から直接、信心の楔が打ち込まれたのだろうと思います。

では幕府の直参であった新池左衛門尉の役人の位はどうだったのか。
律令制度により平安時代以来、宮城警護にあたる六衛府(ろくえふ)があります。
1,兵衛府(ひょうえふ) ①右兵衛府 ②左兵衛府
2,近衛府(このえふ)  ③右近衛府 ④左近衛府
3,衛門府(えもんふ) ⑤右衛門府 ⑥左衛門府

大聖人門下には他にも役人がいます。
四条金吾=左衛門尉(さえもんのじょう)左衛門府第三等官
南条時光=左衛門尉(さえもんのじょう)左衛門府第三等官
太田乗明=左衛門尉(さえもんのじょう)左衛門府第三等官
富木常忍=左衛門尉(さえもんのじょう)左衛門府第三等官
新池殿 =左衛門尉(さえもんのじょう)左衛門府第三等官
工藤吉隆=左近尉 (さこんのじょう) 左近衛府第三等官
曾谷二郎=兵衛の尉(ひょうえのじょう)近衛府第三等官
池上宗仲=右衛門志(うえもんのさかん)右衛門府の第四等官
池上宗長=兵衛志(ひょうえのさかん) 兵衛府の第四等官

ではお手紙の全体を見ていきたいと思います。
 最初に、新池殿が届けて下さった米三石を御宝前に備え、経文どおりに子供が成仏するために、題目を一遍唱えたことが記されています。
 そして阿育大王が過去世に、土の餅一つを釈迦仏に供養したことで大王と生まれ、阿那律は過去世の飢饉のときに、ひえの飯を僻支仏に供養したことで、ご飯が尽きぬ器をもって生まれたことを引かれ、因果の道理からみれば、法華経の行者(大聖人)を供養した功徳は、無量無辺の仏を供養した功徳より勝れていることが示されています。
 次に大聖人が迫害にあっている理由を経文を引きながら説明されます。
 仏教が伝わって700年余り経った日本は、仏教発祥のインドや、仏教が先に伝わった中国より繁栄しているが、浄土宗が阿弥陀仏を本尊とし、真言宗が大日如来を本尊とし、禅宗に至っては経と仏を捨て達磨を本尊とするなど、仏教が乱れていることが示されています。
 世間では多勢に無勢というのが習いであり、法華経を信じていても世間体を気にし、人を恐れ、退転していく姿をあわれんでいます。
 大聖人が釈迦の金言を説いていても、世間の人々は人師の言うことを釈迦の金言と思い、肩を並べるか勝れていると思っていたり、劣っているけれど機根に適っていると思っていると述べられています。
 諸経は隋他意であり、衆生の機根に合わせるので理解はしやすいが、衆生の心を出ないので成仏はできないと述べられる一方、法華経は随自意であり、仏が一切の衆生を成仏させようという慈悲で説かれているので、法華経を信じれば成仏できると示されています。
しかし、世間の人々は釈迦仏を軽んじ、阿弥陀仏や大日如来を重んじているので、それを日蓮が、経文にある謗法だというので迫害されていると言われています。
 後半では、日本に代々続く神々や神武天皇いらい、日蓮ほど三類の強敵に怨(うら)まれた者はおらず、日本国中の人々に憎まれているような日蓮に会いに、遠い道のりを奥深い身延まで来られたのは、過去世に縁があり諸天善神が守ってくれたからだろうと、感謝の言葉をかけられています。
最後に、お話ししたいことはたくさんあるが風邪をひいて苦しいので留めるとお手紙を終わられています。

〈講 義〉

 本文の前に「そもそも因果のことわりは華(はな)と果(このみ)の如し」と因果の道理の例えを引かれています。
 小さな火でも瞬く間に燃え広がり広く焼き尽くすように、一滴の水を得て竜が広く雨を降らすように、米三石という小さな供養と思っているかもしれませんが、正法を弘める法華経の行者(大聖人)に供養された功徳は計り知れないと述べられています。
 大聖人に届けた供養が「華」であり、子供の成仏が「果」であり、道理に照らせば亡くなった子供の成仏は間違いないと励まされています。

■法華経のための供養
 ここで大事なことは、法華経のための供養だから功徳があるということです。
 本文には当時の仏教の乱れは、浄土宗などが説く多くの人々が理解しやすいような随他意の諸経を説くことが原因であり、成仏は叶わないと指摘されています。
 日蓮が釈尊の金言どおりに説く法華経こそ随自意であり、衆生を成仏させると述べられています。
 立宗以来、経文通りに説く大聖人に対し、他宗は国と結託し迫害を繰り返します。
佐渡流罪から戻った後、身延に入ってからは、日興上人はじめ弟子門下の折伏により、弘安二年秋の熱原の法難という農民信徒に対する国家の弾圧に発展します。
法華経という正しい法を説く故の弾圧です。
 時代は移り、戦時中、牧口先生は経文どおり説く大聖人の仏法を遵守し、国家諫暁の末、殉教されます。戦後、戸田先生は創価学会を再興され、病人と貧乏人のために国家権力と戦いました。また世界平和のために原水爆禁止を叫ばれ、後継に託しました。
 その弟子、池田先生はその遺志を継ぎ、国家権力や旧態依然とした宗門の権力と戦ってきました。しかし今の創価学会はどうでしょうか。
 「人間主義」「ひとりのため」などの文字が躍っていて、池田先生がお元気な時と変わらないように見えますが、その実態は選挙を中心とした組織運営にしか私には思えません。
また、組織運営に意見するものは排除されています。
 創価学会が権力に屈していては、国も政治もいいわけありません。
 池田先生がお元気なころは国などからの弾圧がありましたが、今は無く、創価学会から組織運営に意見する会員に向けられているとしか思えません。
迫害が正義の証明ならば、何が正義かわかると思います。
庶民が苦しみ、富裕層がいい思いをする社会を変えるために、権力との迎合をやめ、万人を幸せにする創価学会となってこそ、正しい法を説くと言えると思います。
新池殿御消息を引用された池田先生のスピーチを拝読させて頂きます。
第十三回全国青年部幹部会1989年3月4日
たとえ善意であっても、悪を支えれば、こちらも悪の行為になってしまう。大切なのは、御本尊という供養の正しき対象である。そして信心の「心」である。
[中略]
たとえ信心をしていても、「世間をはばかり人を恐れて」、大聖人の御精神に随順できなければ、地獄に堕ちてしまうとの厳しきお言葉である。
 法華経を正しく行ずれば行ずるほど、迫害を受け、難を受ける。難は正しさの証明である。それであるのに、確信を強めるどころか、反対に信心の心を退してしまう。そうした人々の姿を「不便なり」と仰せなのである。
 また、ここから、正法を受持した民衆が、より賢明になり、より毅然として、力強く団結していくことが、どれほど重要かが拝される。
 大聖人は、「貧なる者は富めるをへつらひ賎(いやし)き者は貴きを仰ぎ無勢は多勢にしたがう事なれば」と、世の習いを嘆いておられる。
 私どもは絶対に、だれびとにもへつらう必要はない。権威を恐れてもならない。いたずらに大勢にしたがうことも無用である。
 戸田先生が、最も激しく怒り、戦ったのも、権力や権威をカサに民衆を見くだす人間であった。権威ぶった人間を心の底から、嫌きらっておられた。私も、また同じである。
 大聖人の門下として、私どもは、どこまでも「正義」のままに、何ものも恐れず、いかなる圧迫があろうとも、民衆の最大の味方となって進んでいけばよいのである。青年部諸君は、この学会精神を、しっかりと受け継いでいただきたい。
 
■振舞い
 子供を亡くされた新池殿の気持ちを推し量ることはできませんが、創価三代の会長も子供を亡くされています。
 第二代会長の戸田先生は、1924(大正13年)年5月13日に、結核で生後7か月の長女恭代(やすよ)を亡くしています。その2年後の1926(大正15年)年11月26日に、妻ツタ(享年32歳)も結核で亡くしています。その時、戸田先生ご自身も結核にかかっていました。

この時の心情を第二代会長就任後の「質問会」で語られています。
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【質問】
 この春、子供が死にましたが、今世において、また親子の縁を結ぶことができるでしようか。

【回答】
 それはわかりません。私は、年二十三で「ヤスヨ」という子供をなくしました。女の子であります。一晩、私は死んだ子を抱いておりました。そのころ、まだ御本尊様を拝みませんから、もう悲しくて、抱いて寝ていました。そして別れて、私はいま、五十八歳です。彼女がおれば、当時三歳でありましたから、そうとうりっぱな婦人となっていることと思いますけれども、今世で会ったといえるかいえないか・・・・・。それは信心の感得の問題です。私はその子に会っております。今生で会うというのも、来世で会うというのも、それは信心の問題でありまして、その日は悲しかった。ぼくも、冷たい死骸を一晩抱いて寝て泣きました。
 もう一つつけ加えておこう。私は、そのときぐらい世の中に悲しいことはなかったのです。目黒に事務所があったのですが、そこで、もし自分の妻が死んだら・・・・・と私は泣きました。その妻も死にました。もし母親が死んだらと思いました。それは私としても、母親が恋しいです。今度はもう一歩つっこんで、ぼく自身が死んだらどうしようと考えたら、私はからだがふるえてしまいました。
それが牢にはいって、少しばかりの経典を読ませてもらって「ああ、よくわかりました」と解決したのですが、死の問題は二十何年間かかりました。子供をなくして泣きすごすと、妻の死も自分自身の死もこわかった。これがようやく解決できたればこそ、戸田は創価学会の会長になったのであります。
今世であえるか、あえないかは、それは私からいうわけにはいきません。あなた自身の感得の問題だと思うけれども、あえるということもおかしいし、あえないというのもおかしいし、あなた自身の信心がつくるものだから、私の力のおよばぬところ、ご自分の力でおやりなさい。
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 戸田先生の長女が亡くなった翌年1925(大正14)年8月、牧口先生は戸田先生と長男民城を連れて軽井沢近郊に1週間滞在しています。終日行動を共にし、戸田先生を励まされていたようです。しかし、励ます側の牧口先生も前年の12月11日に次男善治(享年22歳)を結核で亡くしています。
 子供を亡くした新池殿の心情、そして病を推して手紙を書かれた大聖人の心情と牧口先生、戸田先生の姿と二重写しになる思いがしました。
 大聖人が新池殿を励まそうとする振る舞いは、信仰者として、人として学び、実践していかなければいけないと強く感じました。
 最後に、池田先生のスピーチを拝読し終わりたいと思います。
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 第十三回全国青年部幹部会1989年3月4日
 風邪をひかれたこの五月に記された御抄は、現存するものだけでも、新池殿ばかりではない。夫を亡くした窪尼御前、農繁期のさなか「たけのこ」をお届けした西山入道、法門の質問をしてきた富木殿、また還俗をしたいと言っている門下へのお手紙がある。
 かつて戸田先生は、この御文を講義され、次のように言われていた。
 「大聖人はカゼをひいておられたらしい。カゼをひかれて身が苦しいから、ここで疲れたからやめておくと。やめておくといっても、こんなに書かれた。私なら二行ほど書いて止めておくところです」と。
 御本仏が苦しいとまで言われていることを思えば、相当の高熱であられたのかもしれない。その中で、これほどの長文の手紙をしたためられている。まさに全魂を込められての門下に対する激励であり、思うだけでも胸の熱くなる御本仏の大慈大悲のお心であられる。また「私なら二行ほど書いて止めておく」と言われた戸田先生であるが、戦後、広布の法戦に立ち上がられたときは、戦時中の弾圧のため、すでに身体は、ボロボロであった。
 出獄された四十五歳の時点で、栄養失調はいうまでもなく、肺疾患、ぜんそく、心臓病、糖尿病、痔瘻(じろう)、リューマチ、慢性下痢など、いたるところ病気で衰弱されていた。常人では仕事のできる身ではなかった。
 しかし、戸田先生は、そのお体で、恩師牧口先生の遺志を継いで、広布に立たれ、わずか十数年の間に、幾百年にも匹敵するといってよいほどの、大業を為し遂げられたのである。  
文字どおり生命をかけられての法戦であった。
 いわんや若き生命力にみなぎる諸君である。食糧事情も、医療体制も、戸田先生の時代とは比較にならないほど進んでいる。もしかりに安閑として青春を過ごし、人生を終わっていくのであれば、あまりにもかわいそうだ。
 ″私はこのように青春を生きた。悔いはない。満足だ″といえるような、最高の青春時代を生きていただきたいのである。

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12月の広布史

池田先生 小説『人間革命』の執筆を開始
1964年(昭和39年)12月2日

■創価のルネサンス33
つれずれの語らい
〝執念〟が〝金字塔〟を生む
恩師の故郷―厚田での語らい

■池田大作全集第136巻
随筆 人間世紀の光P225
勝利に舞いゆく沖縄
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■池田大作全集第22巻P304
私の履歴書
小説『人間革命』