座談会御書「大悪大善御書」2024年(令和6年)2月度

〈御 書〉

新版御書 2145㌻1行目~3行目
御書全集 1300㌻4行目~6行目

〈本 文〉

大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか、

〈通 解〉

大事の起こる前には小さな瑞相はない。大悪が起これば大善がくる。既に大謗法が国に充満しているのであるから、大正法は必ず弘まるであろう。おのおのは何を嘆くことがあろうか。迦葉尊者でなくても、舞を舞うべきところである。舎利弗でなくても、立って踊るべきところである。上行菩薩が大地から湧出したときには、踊り出られたのである。

〈講 義〉

一部分のみが伝えられているため、御述作の年代や、だれに与えられたお手紙なのかは不明です。
内容から、大謗法が国に充満し、三災七難が相次ぎ、立正安国論で示した自界叛逆難、他国侵逼難が現実のものとなっていることから、文永11年の蒙古襲来の「文永の役」の頃ではないかと考えられます。
文永11年という年は、佐渡流罪が赦免となり、鎌倉で平左衛門尉に三度目の諌暁をしたのち、身延に入った年です。
(御書講義録には、「文永12年(1275年)二月の御述作とする説がある」との記述があります。)御真筆は堺の日蓮宗妙国寺に現存するそうです。
「大悪をこれば」の「大悪」とは大謗法による三災七難や大聖人及び大聖人門下への迫害と言えると思います。
騒然とした社会にあって、迫害される門下を励ますため認められたお手紙と考えられます。
では、どんな三災七難が起き、社会がどのような状況であったか、当時は、大地震・大風雨・寒波・大飢饉・旱魃そして天然痘・はしかが流行するなど天災や疫病が流行していました。
大聖人が生まれた年の1222年(承久4年)7月23日には、鎌倉で大地震、8月2日には大彗星が出現するなどしていたようです。
天災などは、元号にも影響しているようです。
飛鳥時代の645年に大化の改新があり、以降元号がつけられ現在247個になります。
明治時代からは、天皇が即位する時に新しい元号に変えるようになりましたが、それ以前は、地震や火災、天災が続いて凶作になるといった良くないことが起きたときや、その逆に美しい雲が現れたり、 甲羅に北斗七星のような模様がある珍しい亀が見つかるといった良いことがあったときなど、いろいろな理由で元号が変わったようです。
元号が変わる1番の理由は「国家繁栄」と「国民の平安」だったようです。

時代別の元号が変わった回数
飛鳥時代   69年で 6回 → 12年に1回
奈良時代   90年で12回 → 8年に1回
平安時代   383年で89回 →  4年に1回
鎌倉時代  138年で46回 → 3年に1回
南北朝時代   62年で30回 → 2年に1回
室町時代   180年で15回 → 12年に1回
安土桃山時代  41年で 3回 → 14年に1回
江戸時代  252年で55回 → 5年に1回
このように見ていくと、良くも悪くも変化の時代であったと思います。明治以降に天皇の即位の時と定めなければ、現代は、もっと頻繁に変わっていたように思います。

次に大聖人及び大聖人門下への迫害は皆さんご存じの通りです。
1260年 8月27日(文応元年)松葉ケ谷の法難
1261年 5月12日(弘長元年)伊豆流罪
1264年11月11日(文永元年)小松原の法難
1271年 9月12日(文永8年)竜の口の法難、佐渡流罪

〈本 文〉
「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」

大きな出来事がおこる際には前兆があることを示されています。すでに大謗法により社会が乱れるという大悪がおきているのだから、次には必ず大正法により平安な社会が来るとの大確信を述べられています。大謗法の諸宗が繫栄しているにも関わらず、天変地夭がおこっている今、あなた方(弟子)が大正法を興隆させるときであり、嘆くことはない。そして、法華経の会座において成仏することを知った釈尊の弟子の迦葉尊者なら、こ踊りするところである。智慧第一の舎利弗でなくても立って踊るところである。地涌の菩薩の上首である上行菩薩は大地から踊り出たではないか。と励まされています。

池田先生は、「大地より躍り出た菩薩」の様をフランス学士院で次のように講演されています。
「私はここで、法華経の精髄をまことに簡明に表現した言葉を思い起こすのであります。それは「迦葉尊者にあらずとも・まいをもまいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで出給いしか」と。
 迦葉や舎利弗とは、釈尊の高弟であり、いわば知性の代表の存在であります。彼らが「舞」や「踊り」になぞらえられているのは、法華経の説法を聞いたときの、彼らの歓喜の高揚を意味しております。つまり、宇宙の深奥の真理と人生の最高の価値とを知り得た生命の喜びを描写したものといってよいでしょう。
 上行菩薩とは、法華経の説法の座で、釈尊が滅後の弘法を託すために、大地の底より呼び出したとされる無数の菩薩の代表であります。
 その仏法上の意義はさておき、それらの菩薩が大地より涌出する態様が「舞を舞う」「立って踊る」「踊りてこそ出づ」と、力強く、生気に満ちた芸術的イメージで表象(ひょうしょう)されていることに、私は深い感動をおぼえるのであります。そこには、生々脈動(せいせいみゃくどう)しゆく創造的生命のダイナミズムが、見事に表象されているといってよい。
(「東西における芸術と精神性」1989年6月14日)

大悪大善御書のように、瑞相について述べられた御書は他にもあり、文永10年の顕仏未来記でも大聖人の南無妙法蓮華経の大法が興隆する時であることを述べられています。
「正嘉年中(1257年)大聖人36歳から今年までの大地震、大天変は釈迦が生まれたときのようである。釈迦のような聖人が生まれたのではないか。大彗星があらわれたのは誰が出現したのか。大地震が三度振動するという瑞相は、聖人が出現したということではないか。この大瑞相は、一般世間の瑞相ではない、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経が興隆し、釈迦仏法が滅するという大法興廃の大瑞ではないか。」と。
大法が興隆する時だと宣言され、励まされた弟子たちの戦いはどうだったか。
日興上人は12歳で大聖人の弟子となり、佐渡に常随給仕されました。大聖人が赦免されて身延に入った1274年には、岩本実相寺方面での弘教、翌1275年には富士下方(しもがた)での弘教そして駿河の熱原竜泉寺の下野房(しもつけぼう)日秀・越後房日弁・少輔房日禅・三河房頼円及び在家の人々を改宗させ大聖人門下としました。
1276年に日興上人により日目上人が得度し、身延山で常随給仕するようになります。
1278年には熱原郷の神四郎・弥五郎・弥六郎が入信しています。
熱原方面で迫害がおきるようになり、1279年(弘安2年)9月21日、熱原郷の謗徒に襲われ神四郎等20名が捉えられて鎌倉に送られ、10月15日に神四郎・弥五郎・弥六郎が鎌倉で刑死となります。
※熱原の三烈士は兄弟とされていますが、北山本門寺に残されている写本により、神四郎と弥五郎が兄弟で、弥六郎は兄弟ではなく、名前も弥次郎ということが分かっています。詳しくは、自活サイトの宗学コラム2020年2月27日投稿の「熱原法難余話(三) 熱原の三烈士は三兄弟ではない?」をご覧ください。

熱原の農民は、入信も浅く、大聖人に一度も会ったことがないにもかかわらず、なぜ信仰を貫くために迫害に立ち向かったのか。
私は日興上人の振舞い、人間性に触れ、大聖人の仏法に希望を見出したのではないかと考えます。また、それはどの時代でも同じだと思います。
そこで池田先生が入信された当時のことをあらためて確認してみました。
池田先生の入信は、1947年(昭和22)年8月24日。
入信した時のことを人間革命や私の履歴書、聖教新聞で書かれています。
私たちがよく知るのは小説人間革命第2巻です。
「青年らしく勉強し、実践してごらんと、おっしゃったことを信じて、先生について、勉強させていただきます。いま、感謝の微意(びい)を詩に託して、所懐(しょかい)とさせていただきたいと思います」と。
次に私の履歴書では、「正直いって、そのときの私自身、宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった。戸田先生の話を聞き、姿を見て、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をしたのである」と。
最後に昭和32年10月の聖教新聞の「私の初信当時」というコーナーで、学会本部で教学部長から折伏を受けた時のことを話されています。
入信動機は、人生の目的、健康、死の問題であると仰っています。
一部抜粋
「その生きていくという生活の根本問題、それからすぐに老人になって死んでいかなければならない人生の目的の問題、自分の宿業、宿命、死ぬという問題について、全部解決できるのがこの信仰なんだよ、と言われたのです。私はなるほどなあと思ったんです」
「青年はより高いものを求めていき給え、勉強し給えと言われて、いやだったが信心する気になったんです」一応、信仰したけれども、随分悩みました。「えらいことやっちゃったな、一生、南無妙法蓮華経と唱えるのか、みんな気狂いだと思うだろうなあ・・」と苦しみました。
もう一つ胸を打ったのは、創価学会が、あの戦時中に真っ向から軍部と対抗して、天照大神では日本の国は救えないと、日蓮正宗の仏法、立正安国論、顕仏未来記の予言、諌暁八幡抄の哲理をもって、軍部を攻撃したあげく、初代牧口会長、現会長(戸田)先生始め二十何人かの人が牢獄へ行ったんです。それと、他は全部邪宗教であると断言して、軍部に真っ向から反対した確信があるからには、何か真実の宗教があるのだろうと感じたのです。世の中の人たちは、他宗を批判するからあの宗教はダメだ、というが、私は反対だった。他の宗教は邪宗だと言い切れるんだから正しいのだろう、と感じたんですよ。
そして、会長先生の姿を見て、この宗教には迫害があるかもしれないと恐れたんです。もし難があって退転するようなことなら、始めから信心をやめよう、信仰しきって行けるなら一生涯信心して行こうと、一年間、もんもんと悩んできたのです。
利益とか罰とかは別問題でした。学会と運命を共にして行けるか、大御本尊を一生涯護持して行けるか、それが私のいつわらざる心境でした。始めの一年間、その時に「よし、この立派な会長先生の元であるならば、なんでこの身を惜しもうか、学会のためにつくそう、広宣流布のために、凡愚のみであるがつくさせて頂こう」と決心して十年目です。

信心がどういうものなのか分からなかったが、牧口常三郎と戸田城聖が戦時中に軍部に反対した確信があるからには、真実の宗教があると感じた。
迫害があるかもしれないと恐れつつも一年間悩んだあげく戸田先生の元で広宣流布を決意するわけです。
偏に戸田第二代会長の信仰の確信と人間性に決意をしたと思います。同じように熱原の農民信徒も日興上人の信仰の確信と人間性に触れたことが、大きな理由ではないかと考えました。しかし、現在の創価学会は、三代の会長の精神を都合のいいことだけ利用し、都合の悪いことは過去のものとしているようにしか思えません。また、民衆が苦しむような政治に対して、国家諌暁した大聖人とは真逆であり、権力に迎合するような政治支援に疑問を抱かざるを得ません。今、まさに「大悪おこれば大善きたる」との御文を現実のものとするために、三代の会長の精神を学び実践する自分でありたいと強く思います。
今月は、池田先生が歴史に刻んだ「伝統の二月」です。
それぞれが、私自身の歴史に残る「伝統の二月」としていきたいと思います。

最後に、池田先生の指導を紹介させていただきます。
「偉大な人生には、感傷はない。悲嘆もない。悲観もない。悲観主義は敗北の道である。人生でも、社会でも、地域でも。悲観からは、何一つ価値は生まれない。悲観を楽観に変える薬──それが「希望」──「ホープ」である。
〈中略〉
御聖訓に「月月・日日につよ強り給へ・すこしもたゆ心あらば魔たよりをうべし」──月ごとに、日ごとに信心を強くしておいきなさい。少しでも、たゆむ心があれば魔がつけこむでありましょう──と。
 また″進まざるは退転″ともいう。「前進また前進」──そこに信心の真髄も学会精神もある。「幸福への王道」がある。」(新春幹部会、杉並・中野合同総会1992年1月5日)
以上

御書講義 動画サイト

創価の森

2月度座談会御書履歴

座談会御書 「崇峻天皇御書」2000年(平成12年)
座談会御書 「立正安国論」2001年(平成13年)
座談会御書 「開目抄」2002年(平成14年)
座談会御書 「種種御振舞御書」2003年(平成15年)
座談会御書 「聖人御難事」2004年(平成16年)
座談会御書 「兄弟抄」2005年(平成17年)
座談会御書 「開目抄」2006年(平成18年)
座談会御書 「佐渡御書」2007年(平成19年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事」2008年(平成20年)
座談会御書 「大悪大善御書」2009年(平成21年)
座談会御書 「生死一大事血脈抄」2010年(平成22年)
座談会御書 「佐渡御書」2011年(平成23年)
座談会御書 「妙一尼御前御消息」2012年(平成24年)
座談会御書 「三三蔵祈雨事」2013年(平成25年)
座談会御書 「上野殿御返事(刀杖難事)」2014年(平成26年)
座談会御書 「阿仏房御書(宝塔御書)」2015年(平成27年)
座談会御書 「三三蔵祈雨事」2016年(平成28年)
座談会御書 「妙一尼御前御消息」2017年(平成29年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(煩悩即菩提御書)」2018年(平成30年)
座談会御書 「生死一大事血脈抄」2019年(平成31年)
座談会御書 「諸法実相抄」2020年(令和02年)
座談会御書 「種種御振舞御書」2021年(令和03年)
座談会御書 「一生成仏抄」2022年(令和04年)
座談会御書 「日女御前御返事」2023年(令和05年)

2月の広布史

第二代会長戸田先生 誕生日
1900年(明治33年)2月11日

小説・人間革命
・生い立ち 第2巻 幾山河・涼風
・牧口初代会長との出会い 第1巻 再建
・入獄 第1巻 黎明
・出獄 第1巻 黎明
・第二代会長就任 第5巻 烈日
・広宣流布の模擬試験 第12巻 後継

池田大作全集
・『池田大作全集』第22巻 随筆人間革命 序に変えて・寒椿・他多数
・『池田大作全集』第22巻 私の履歴書 序文・森ケ崎海岸
・『池田大作全集』第22巻 つれづれ随想 雪山の寒苦鳥・師曠の耳

■石狩市ホームページに厚田ゆかりの著名人(旧厚田村栄誉村民)として紹介。

二月闘争
1952年(昭和27年2月)

■小説 新・人間革命
・第5巻 驀進

■小説 新・人間革命
・第27巻 奮迅

■輝きの明日へ NO.68
・東京・大田最高協議会
2000年9月25日
東京・信濃文化センター

■輝きの明日へ NO.76
・東京総区長会
2001年1月30日
創価文化会館

■輝きの明日へ NO.77
・東京女子部部長会
2001年2月9日
東京戸田記念講堂