令和2年 2月度 座談会御書 諸法実相抄

行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし

(御書1361㌻11行目~13行目)

「日蓮仏法ってどんな仏法なの?」という問いに対する明答が今回の御書、諸法実相抄の拝読箇所になると思います。

冒頭に「行学の二道」とありますよね。この『道』というのが肝要だと思うんです。道っていうのは、御存知のとおり進むところ、昼寝するところではありません。一本道だったりカーブだったり、ともかく前へ進んでいけます。「行学の二道」という五文字に、「仏法にも道があります、それは行と学の二つの道です」ということを教えられていると思うんです。「行と学で進んでいこう。私たちが進むのは、行と学の道だよ」という大聖人の呼びかけですね。そして「励んでいこうよ」と。

「行学の二道を励みましょうー」と、もう、これだけで十分だと思うんですけどね、それじゃあ怒られちゃうから、続けましょうか。

次は、行と学が絶えてしまえば、仏法は存在しないに等しいと言われてますけど、行とは自行化他、勤行唱題と信仰の喜びを友に語ること、折伏です。学は日蓮仏法を学ぶこと。

えっ?じゃあ、私の仏法はとっくに絶えてるよっ、無いに等しいって!?

「何もやってないから」ですか。

そんなことありません。

ここに来て、みんなの話を、また御書の話を聞いている。これだけで立派な行であり、学ではないですか。仏の集まりで法を聞いているんですから、立派な仏法ですよ。卑下しないで、自信を持っていきましょう。

「我もいたし人をも教化候へ」

さあ、出ました。一生成仏への片道超特急の言葉です、これは。折伏の歓喜ってすごくないですか。私の勧めで、話で、友が御本尊を頂いて、初めて一緒に題目を唱えた。あの時の喜びったら、それはもう、上空へ飛んで行っちゃうくらいのものでしょう。ここは「妙法を弘める喜びを共に分かち合いましょう」という、大聖人の呼びかけですよね。

「行学は信心よりをこるべく候」では、その行学の二道に励む原動力は何かと言ったら、信心なんです。じゃあ、なんの信なの?となったら、今回の拝読箇所の前にある「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」と、大聖人は明快に言われています。「全世界で第一の御本尊を強く信じていきなさい」と。

「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と大聖人は言いますけど、力なんか無くたっていいんです。最初からあるわけない。何事もやっていくうちに、力って付いてくるもんじゃないですか。ですから、この文に込められた大聖人の心というのは、「力をつけるほどにいやまして語っていきましょう」ではないかと思います。

最後に言いたいのは、日蓮仏法の何が凄いかって、『自分で幸せになっちゃう』ということなんです。

「なんだよっ、当たり前じゃないか」と思うかもしれませんけど、日蓮大聖人の当時は、特に宗教的にはえらい坊さんに拝んでもらうとか、加持祈祷をやってもらうわけです。で、信者、依頼者は黙って頭を下げているか、学識ある人は一緒に経を読むとか。

ところが、「自分で幸せになれるんだよ」と日蓮大聖人が説いちゃったものですから、「えっえー??」と衝撃です。「わたし、自分で幸せになっていいの~?」あり得ないわけですよ。現世利益も、死んだ後の成仏も、坊さん・人任せなわけですから。そこには必ず自分以外の誰かがいなきゃいけない。

さあー、困っちゃう。他宗の僧侶らは、それは怒りますよね。「俺たちの生活の糧を奪うのかよ」って。大聖人の法難の連続って、それも大きな要因だったのではないですかね。「日蓮党は自分で拝んで幸せに、更には即身成仏までしちゃうよ」と。「これじゃあ、俺たちいらないじゃない」と慌てたことでしょう。男の嫉妬は真っ黒けとか言われますけど、嫉妬どころじゃない。「おまえ、俺の信者を奪いやがって。俺を殺す気か」と、なったのでしょう。

他者に拝んでもらい仏像・絵像に向かって救済を願うおすがり信仰から、一閻浮提第一の御本尊に朗々と題目を唱えて行学の二道に励み、自己と周囲に幸福世界を創りゆく信仰へ。

日蓮大聖人によって成された仏教観の革命だと思いますが、実は身近なところに実践法があった。それを端的に示されたのが今回の御書であったと思います。