座談会御書「報恩抄」2023年(令和5年)10月度
〈御 書〉
御書新版261㌻4行目~6行目
御書全集328㌻16行目~1行目
〈本 文〉
日本乃至(ないし)漢土・月(がっ)氏(し)・一閻浮提に、人ごとに有(う)智(ち)・無智(むち)をきらわず一同に他事(たじ)をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。
このこといまだひろまらず。一閻浮提(いちえんぶだい)の内(うち)に仏の滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮(にちれん)一人(いちにん)、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もおしまず唱うるなり。
〈通 解〉
日本から中国・インド・全世界に至るまで、誰であれ仏法の智慧の有無に関係なく、皆、同じく大聖人の仏法以外には目もくれず、南無妙法蓮華経と唱えるべきである。
このことはいまだ広まっていない。全世界の中で釈尊が亡くなってから二千二百二十五年の間、一人も唱えていない。日蓮一人だけが、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と、声も惜(お)しまず唱えているのである。
〈講 義〉
「報恩抄」は、建治2年(1276年)7月21日、日蓮大聖人が身延に入られて3年目の55歳の時に安房の清澄寺の修学時代における旧師である道善房の死去の一報を聞いてお認めになられた御書で、同じく清澄寺修学時代における兄弟子で後に日蓮大聖人に帰依し、弟子となった浄(じょう)顕坊(けんぼう)と義浄坊(ぎじょうぼう)のもとに送られました。そして、旧師・道善房の追善回向と師恩に報いるために、かつての兄弟子たちに本抄を託され、旧師の墓前で読むようにとの伝言を添えられました。
日蓮大聖人は本抄で、人間らしく生きる根本の道は「報恩」にあることを示されます。そして、日蓮大聖人ご自身、その大恩に報いるために仏法を学び究められたと仰せです。
続いて、釈尊が説いた一切経の中で、最高の教えである経典は法華経であることを明かされます。
ところが、仏教の歴史において、様々な宗派の人師・論師達は、自分たちが拠(よ)り所にしている経典こそが法華経よりも勝れているという誤った主張を重ねてきました。
特に日本において、法華経第一を打ち立て、朝廷にも認めさせた伝教大師の死後、背信の弟子たちが、真言宗の教義を取り入れ、法華経よりも大日経の方が勝っているとの邪義を唱えていることを厳しく糾弾されています。
日蓮大聖人は、身命を投げ打って、これらの邪義を破折し、度重なる大難にあわれました。これも、ひとえに四恩(父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩)に報じるための戦いであったことを明かされています。
さらに、末法に広まるべき法は、大聖人の三大秘法(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目であることを示されています。
また、日蓮大聖人がただ一人立ち上がり、声も惜しまず唱えている南無妙法蓮華経は、大聖人の広大な慈悲によって未来永遠に流布し、一切衆生を救っていく大法であることを宣言されています。
そして、この妙法弘通の功徳は、全て旧師である道善房に集まっていくと仰せになり、本抄を結ばれています。
それでは、本抄に移りたいと思います。
今回の拝読範囲は、先ほど申し上げた、三大秘法のうちの本門の題目について語られている箇所であります。
それでは、本文に移りたいと思います。
【本文】
日本乃至(ないし)漢土・月(がっ)氏(し)・一閻浮提に、人ごとに有(う)智(ち)・無智(むち)をきらわず一同に他事(たじ)をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。【通解】
日本から中国・インド・全世界に至るまで、誰であれ仏法の智慧の有無に関係なく、皆、同じく大聖人の仏法以外には目もくれず、南無妙法蓮華経と唱えるべきであるとおっしゃっておられます。
この御文の前段では
「問うて言う。しからば天台大師や伝教大師の、いまだ弘通していない正法があるのか?」
「答えて言う。それは、三つある。これ末法のために仏が留めおかれたものである。これは、迦葉(かしょう)や阿(あ)難(なん)等、馬鳴(めみょう)や竜樹(りゅうじゅ)等、天台や伝教等の弘通されなかったところの正法である。」「一つは本門の本尊である。二つには本門の戒壇である。三つには本門の題目である。」
というふうに本門の三大秘法を明かされています。これは、五大部と称されている御書・立正安国論・開目抄・観心本尊抄・撰時抄のいずれにも三大秘法の名目すら明かされていません。故に報恩抄は「大事の大事」とも大聖人は、おっしゃっておられます。
天台大師や伝教大師はみなさんご存じの通り、釈尊の文上の法華経を正当に伝えた像法時代の仏法指導者です。前段で天台・伝教が弘通しなかった正法、つまり日蓮大聖人の三大秘法こそが、末法に広まるべき正法であるということです。しいて言えば、「これ末法のために仏が留めおかれたものである。」とあるように末法においては、釈尊が説いた、いわゆる文上の法華経では、いくら修行しても、何の効力も無いということです。当然、この正当な法華経の流れを断ち切り邪義を唱えている、当時の真言宗や諸宗の教えなどは、言語道断と言うわけです。故に大聖人は、国の違いを超えて、日本から中国・インド、さらには全世界に至るまで「有智・無智を嫌わず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」、仏法についての智慧の有る人も無い人も分け隔て無く、他の事(大聖人の仏法以外のこと)には目もくれず、南無妙法蓮華経と本門の題目を唱えていく以外に成仏・真の幸福の道を開く方法は、無いと教えてくださっています。
では、本門の題目とは、具体的にどういう題目なのでしょうか?
日寛上人の文底秘沈抄には、こうあります。
「本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり、仮令(たとえ)信心有りと雖(いえども)も若(も)し修行無くんば未(いま)だ可ならざるなり」
つまり、大聖人が顕された御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることが本門の題目ということです。しかも、「本門の題目には必ず信行を具す」また「たとえ、信心有りと雖(いえども)も修行が無ければ、未だ可ならざるなり」とあるように、信じていても、唱題行という実際の行動が無ければ、成仏も真の幸福の道もあり得ないということです。そして、御本尊を信じて、常に題目をあげぬいていくこと(信心(しんじん)口(く)唱(しょう))こそが末法の修行の第一義だということです。そうした、自行があっての化他行(広宣流布の信心)ということです。
そして、幸福の直道である、この本門の題目・南無妙法蓮華経を全世界の人々が唱えていくべきなんだと教えられています。
【本文】
このこといまだひろまらず。一閻浮提(いちえんぶだい)の内(うち)に仏の滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮(にちれん)一人(いちにん)、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もおしまず唱うるなり。【通解】
このことはいまだ広まっていない。全世界の中で釈尊が亡くなってから二千二百二十五年の間、一人も唱えていない。日蓮一人だけが、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と、声も惜(お)しまず唱えているのである。
続いて、末法における唯一の成仏の方法である、本門の題目は、日蓮大聖人が出現されるまで、釈尊滅後の正法・像法時代には誰一人として弘める人はありませんでした。厳密に言うと弘める必要が無かったからです。
釈尊在世及び正法時代・像法時代は、本已(ほんい)有(う)善(ぜん)の衆生の化導を目的とした機(き)・時(じ)の時代です。ですから、末法の本(ほん)未(み)有(う)善(ぜん)の衆生を救う本因下(ほんいんげ)種(しゅ)の法【南無妙法蓮華経】を明かすには、法華経本門で結要(けっちょう)付嘱(ふぞく)をうけた上行菩薩の出現を待つ以外にありません。逆に末法の衆生は、過去に下種をされていない本(ほん)未(み)有(う)善(ぜん)の衆生ですから、釈尊の熟(じゅく)脱(だつ)の化導である文上の法華経をいくら、学んで修行したとしても、仏になる種もなければ、育つ実も無い訳ですから、当然、末法の時代には無益となるわけです。
なので、上行菩薩の再誕。その本地である久遠元初自受用報身如来である末法の本仏・日蓮大聖人の出現なくしては、本門の題目を唱える人もいません。
そして、末法に日蓮大聖人が出現し、三大秘法を明かし、一人、本門の題目を唱え弘めることによって、万人成仏の道が開かれたということを日蓮大聖人は、教えてくださっています。そして、その本門の題目を大聖人お一人が数々の大難に耐えながら、声も惜しまず唱え続けている。と仰っておられます。
その大聖人の仏法を現代に展開し、世界192カ国地域に妙法を弘通したのが、我々の師匠・池田先生です。その陣列に加わり、広宣流布を目指す、直弟子の私たちの使命は本当に計り知れません。
最後に池田先生は、ご指導の中でこうおっしゃっておられます。
「恩を知り、恩に報いることこそ、人間の道であり、仏弟子の要件である。
大聖人は、「動物ですら恩を知り、恩に報いる。いわんや人間をや」とも仰せである。恩を忘れ、恩を裏切ることが、どれほどの悪行であるか。学会においてもこれまで、退転(たいてん)・背信(はいしん)の輩が、例外無く、卑(いや)しい「恩知らず」であったことは、皆さん方がよくご存じのとおりである。
「恩知らず」は、仏法の道に背き、人間の道、生命の道を外れた、最低の生き方なのである。「報恩抄」では、通じて「四恩」に報い、別して「師匠の恩」に報いていく道を説いておられる。
また、日寛上人の「報恩抄文段」には、報恩の根本の道とは、「邪法を退治すること」であり「正法を弘通すること」である。すなわち、不惜身命の広宣流布の信心である。身命をおしまず「邪法を退治」し、「正法を弘通」すれば、一切の恩に報いることができるからであると、教えてくださっている。
真実の「師匠への報恩」の道は、悪を破折し、正義を拡大する以外にない。
反対に、悪を傍観(ぼうかん)し放置しておくことは、師匠に対する忘恩であり、裏切りである。そして、仏に等しい善良な同志を守り抜き、広宣流布の正義の勢力をいちだんと拡大しながら、断固として勝ち進んでいくことである。これこそが、弟子の「報恩の戦い」なのである。「師匠の恩に報いる」という言葉を、民主主義の」現代から離れた古い価値観のように受け取る人もいるかもしれない。
しかし、「師弟の道」「報恩の道」こそ、時代を超えた、人間の永遠の勝利の道であることを知っていただきたい。また、師弟の心と言っても、口先だけで論ずるものではない。自らが深く決意し、行動する中に「不二」の魂が脈動していくのである。」とおっしゃられています。
「自活座談会」に参加されているみなさんは、自らが決意し、自らが広宣流布のため行動する池田門下「不二の弟子」「報恩の弟子」だと思います。
自分自身も今回、この「報恩抄」学ばせていただき、「報恩抄」全体の骨子となっている「師匠の恩」を報じることが、一切の恩を報じることに通じていくことを学ばせていただきました。そして、「師匠への報恩」とは、一つは、信心を教えていただいた師匠に対し、個人としてどれだけ幸福な境涯を築くことができたのか?もう一つは、大きな流れとして今現在、自分として広宣流布のために何を考え、どういう行動をしているのかということが「報恩の道」であると自分自身感じました。現代の日蓮大聖人直結の和合僧団であられる「自活」のみなさまとこれからも共に学び、励まし合いながら共に行動していく「不二の弟子」「報恩の弟子」であり続けられるよう、今後も頑張ってまいります。
以上で御書講義を終わります。
ありがとうございました。
御書講義 動画サイトほか
10月度座談会御書履歴
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10月の広布史
――「世界平和の日」――
昭和35年10月2日
■池田大作全集 第126巻 随筆 129㌻
■大道を歩む 私の人生記録