【投書】「役職解任・活動自粛処分」に思う

投書者:創価大学30期 上野 大一
本年6月より、こちらのサイトに何回か投稿をさせていただいているのであるが、今回は、現状のご報告と、所感を少々お伝えさせていただきたいと思う。
<参考:過去の投稿>
6/6投稿:『所沢問答に寄せて』 https://jikatsu.net/83076/
7/6投稿:『教学要綱 説明会の顛末と今後』 https://jikatsu.net/83338/
7/23投稿:『日蓮大聖人の「発迹顕本」と「神格化」に関する一考』 https://jikatsu.net/83480/
<これまでの経緯と現状>
本年7月23日、現在もオンラインで配信中の「『教学部教授補登用講座』のために 第1回 開目抄講座」の内容を批評した「日蓮大聖人の『発迹顕本』と『神格化』に関する一考察」と題した論考を発表させていただいた。その後、地元の学会組織の責任者より「懇談したい」と電話があり、8月7日の夜に、地元会館で懇談する運びとなった。
懇談の内容は、私の「全役職の解任」と「活動の自粛要請」の通達であった。この決定の理由は、私が、「『自活サイト』に投稿」し、学会批判をしたから」というものであった。そして、この決定は「荒川総区の各階層の幹部と慎重に検討を重ねて、決定されたものである」と説明があった。夏季友好期間中に、このような人事の協議が適切に行われたのかどうかは、疑わしい。後日の電話の中で、懇談した幹部自身が「学会本部から8月初旬に連絡を受けた」と明言もしている。通達日は8月7日で、懇談要請の電話があったのは8月3日。いわゆる「上意下達」による決定だったのだろう。
懇談の中で、「役職はなくなるが、今後も、会の名誉を傷つけるようなことはやってはならない」という話があった。私は、「何が名誉を傷つけることになるのか」と聞くと、「会が”邪教”である、とか、執行部批判(私が、「執行部は師子身中の虫である」といったこと)は、まさに名誉を傷つけるものだ。これを他の会員が見ると、混乱が生じる。だからやってはいけない」とあったので、私は、「あくまで、教学的判断に基づいてそのように批判しているので、批判を収めたいのであれば、私の教学的質問に答えればよいのではないか。それが、1年半以上も明確な回答がない、説明会の開催も要請したが、開催されない。これが問題である」と応じた。
そこから、教学的な話になったのだが、いつものように、議論は平行線で終わった。しかし、以前の懇談と異なり、「学会の教義は、従来と何も変わっていない」という点を強調していた。私が、「今回の開目抄講義で原田教学部長が述べている『日蓮大聖人の神格化』は何を指すのか。大聖人が久遠元初自受用報身如来と顕れた『発迹顕本』を指しているのではないか」と質問すると、「そんなことはない。学会では、大聖人の『発迹顕本』を否定したことはない。講義で述べていないからと言って、否定することとイコールではないだろう」との回答であった。さらに、「『教学要綱』は、広く社会に向けて学会の教義を説明するためのものだ。学会の教義自体は、従来と何一つ変わっていない」と強く主張された。
そもそも学会の教義が、従来と変わっていないのであれば、質問に答えるのは容易なはずである。よって、翌8月8日に、以下の質問を認め、書面での回答を求めた文書を、この幹部宛てに送付した。
一. 現在の創価学会において、日蓮大聖人の「発迹顕本」を教学上どのように位置づけているのか。
一. その「発迹顕本」に関する解釈は、創価三代会長の教学的解釈と連続するものか。その場合は、『教学要綱』において、どのように継承されているのか。
一. 『開目抄講義』の説明にあった、「超越的存在として日蓮大聖人を神格化した」という説明は、具体的に何を指すのか。
もう一カ月以上経つが、現時点で何の回答もない。
9月7日、本部の幹部から電話があった。内容は、まず私の役職解任について、過日行われた会合で地区幹部以上の方々に通達したということ。そして、それを受けて、私が所属している支部・地区の責任者で協議した結果、「私に一切の活動自粛を要請することを決定した」というものであった。
まず、私の役職解任についての組織への通達は、私には一切知らされることなく行われ、私は完全に事後的に知らされた。すなわち、通達の内容に私の意見が反映される余地はなく、私自身の立場や弁明の機会は全く与えられなかった。また、活動自粛要請の決定についても、私の意見は一切聞くことなく決定された。故に、私は、「この決定は、著しく公平性を欠いている。学会は対話の団体だ。説明の機会をいただきたい」と応じたが、「それはだめだ。既に総区の幹部と話しているのだから必要ない。また、対話をしても、貴方の思いは分からないと思う」と、対話そのものを拒否された。また、私が、『教学要綱』の内容に疑問を感じ、説明を求めてきたが、明確な回答がなかったことを話すと、「皆、個々に、この信心が正しいと信じている。信じられないのであれば、辞めるしかないだろう」という、耳を疑う発言があった。
私は、「活動に参加するかどうかは私の権利であり、地域での活動は継続していく」と伝え、電話は終えた。その後、所属組織の幹部に懇談を依頼しているが、完全無視の状態となっている。
<所感>
私は、『教学要綱』と、この書を公式の教義書とした学会の執行部について、厳しい言葉で批判しているので、「役職者として不適切である」という判断自体については、理解している。
しかし、そもそもの私の問題意識は、「創価学会における根本教義の改変」である。一創価学会員として、教義を深く知り、理解しようとするのは当然のことであり、その教義について、『教学要綱』に起因して疑問が生じたため、1年半以上に亘って、学会幹部に質問し、説明を求めてきたが、明確な回答はなかった。「教学に精通した方を紹介してください」と依頼したが、「貴方と話しても平行線だから、紹介しても無駄である」という回答が繰り返された。荒川では教学部の幹部を招いて御書講義を開催しているので、その幹部との懇談を依頼したが、「御書講義のために来ていただいているのだ」と拒否された。説明会の開催を要望しても、却下された。
幹部も答えられず、教学に通じた方の紹介も受けられず、説明会の開催もない。そのような状況であったため、私は、敢えて強い言葉を用いて、
「『教学要綱』は師弟違背し、謗法を犯しているがゆえに、この書を公式教義書とする限りにおいて、学会は邪教となる。そして、御書に照らし、『教学要綱』で三宝を改変した原田会長及び執行部は、師子身中の虫である」
という自分の意見を公にしたのである。少し奇妙な言い方になるが、私は、この「学会は邪教となる」という大きな主張に対し、教義的な誤りがあるのであれば、堂々とした指摘、徹底した破折を望んでいた。敢えて、強い言葉で論点を明確にしたことで、それを迫ったのである。教義的な破折こそ、「仏法の正義」を示す正攻法なのである。しかし、結果は、「役職の解任」と「活動の自粛要請」という、組織の論理による対応であった。教義的反論は、皆無であった。
これは、会員からの「教学に関する特定の質問には回答しない」という対応を、今の組織が、事実上認めたに等しい。さらに言うと、仏法を根本とする組織が、「仏法の正邪」をめぐる問いに対して「組織の決定」をもって応じるのであれば、自己否定につながるのではないだろうか。先の「学会は邪教となる」という主張を破折しないのであれば、結局は認めたことになってしまう。「仏法の正邪」という判断基準を失うならば、その組織に「仏法の正義」が存在する道理はなくなってしまう。「正義」がなければ「邪義」である。「邪義」を用いれば「邪教」である。。。
別の角度から考えたいのが、「私は学会を信じている」という言葉に表れている「組織信仰」である。私は、複数の幹部から、同様の言葉を何度も聞いた。判断基準が、いつの間にか、「仏法」ではなく「組織」になっているようなのである。このことは、ぼんやりとした考えだったのだが、今回の処分を経て、明確に意識するようになった。
今は、幹部との懇談がずっと平行線だった理由がよく理解できる。そもそもの土俵が違っていたのだ。即ち、私は「仏法の正邪」という土俵の上で話をしようとしていたが、先方は「組織の決定」という土俵の上に立っていたのである。
日蓮大聖人の「仏法の正邪」に対する厳格さに照らし、そして、その精神を現代に甦らせた創価三代の会長の師弟の精神と実践に照らし、学会組織において、教学の議論は「仏法の正邪」という土俵の上でなされて当然と考えていた。また、「折伏」は、そもそも「仏法の正邪」を相手に明確に覚らせる行為のことある。学会は「折伏の団体」だ。これらのことは、あまりにも自明のことであるので、幹部との懇談が平行線に終わっても、いつか通じる筈だという期待もあった。私のその認識が間違っていたことに、今回の組織的処分を経て、ようやく気付くことができたのである。教学的議論も、「仏法の正邪」ではなく、「組織の決定」が正邪の基準となっていたのである。
「組織の決定」で正邪を判断する「組織信仰」に陥ると、組織は無謬となる。「組織信仰」のもとでは、学会が「邪教」になり得ないし、執行部が「師子身中の虫」などと吹聴する会員は、とんでもない危険分子となる。そして、そのような組織の決定に従えない人は、組織の論理で処分して何ら問題はなくなる。「万人成仏」や「生命尊厳」といった理念も、「組織信仰」のもとでは、無意識的に「組織に従うものにおいては」という条件がついているのだ。その条件から漏れる会員については、「生命尊厳」の理念を適用しなくても問題なく感じるようになってしまう。
創価三代の会長は「仏法の正邪」に厳格であられた。いつから、「仏法の正邪」が「組織の決定」に移り変わってしまったのだろうか。その明確な線引きは難しいが、教義的には、一つの分岐点は、「日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない」とした、2014年11月の「会則改定」にあるのではないだろうか(具体的な解説は、2015年1月30日付の聖教新聞に掲載)。
日寛上人は、一大秘法を「本門の本尊」とされ、一大秘法を開して三大秘法、三大秘法を開して六大秘法、そして、六大秘法を開して、八万法蔵とされた。これは、すべての教義と実践が、「御本尊」から展開され、また、「御本尊」に帰することを意味している。以前の学会の教義は、この原理に則っていた。つまり、一切の活動は、「御本尊」から出発していた。そして、教学研鑽は、「御本尊」への確信を強めるものであった。研鑽によって強まった御本尊に対する確信は、さらなる行を促し、それが信心の功徳の実感へとつながっていった。戸田先生が、「信は理を求め、求めたる理は信を深からしむ」と言われた通りである。この信行学のサイクルが、2014年の改正で、断たれる方向性になってしまったのだ。『教学要綱』では、「一大秘法である『南無妙法蓮華経』」(要綱158頁)と明記され、三宝の法宝から「御本尊」の文言が削除された。『教学要綱』は、御本尊を中心とした信行学のサイクルの断絶を決定的にした書と言えるだろう。
この点、こちらのサイトで発表している論考で、アイマァ氏という方が完璧に破折されておられるので、参考までに紹介させていただきたい。
『創価学会教学要綱』における「一大秘法」の解釈について https://jikatsu.net/83101/
『創価学会教学要綱』における「本門の本尊」の説明について https://jikatsu.net/84126/
では、日寛教学から離れ、結果、「御本尊」の存在が薄まった今、学会教学は、根本的に何を目指しているのか。それは、組織の権威を高める「組織信仰」のための教学ではないだろうか。その一例であるが、「教学部教授補講座第二回『生死一大事血脈抄講義』」で、以下のことが語られる箇所がある。
「異体同心の和合僧団そのものが、民衆を救済する力を持ちます。だから和合僧団である創価学会を守ることが重要なのです」(講義24分頃)
一読すると、戸田先生の「戸田の命より大事な、広宣流布の創価学会の組織」といったご指導にかなった言説に聞こえるが、民衆を救済する力を持つのは、組織ではなく、組織に所属する”人間”ある。私は、「組織”そのもの”が民衆を救済する力を持つ」としたこの講義に、組織の絶対化を図ろうとする「組織信仰」のための教学を見る思いがした。「創価学会仏」に関する説明もしかり、学会が日興上人を差し置いて、僧宝になったのもしかりである。
このオンライン講座について簡単に指摘しておくと、「一大秘法=本門の本尊」という教義体系のもとでは、「生死一大事」は「御本尊」となる。また、血脈も「御本尊」を通して流れかようものとなるのである。池田先生の講義から引用する。
「所詮、妙法の電源体ともいうべき御本尊こそ、一大事であると仰せられているのであります。」(「生死一大事血脈抄」の池田会長講義23頁)
「私は、この絶対勝利の信心を戸田先生から教わりました。戸田先生は、牧口先生から教
わりました。牧口先生は、御本尊から、大聖人から、教わりました。ここに創価の師弟の
血脈があります」(生死一大事血脈抄講義235頁)
今回の生死一大事血脈抄オンライン講義では、「御本尊」に関するこのような教義の説明は一切ない。
では、この講義では、何をもって「異体同心の和合僧団そのものが、民衆を救済する力を持つ」としているのか。それは、今の学会が「生命尊厳の思想を世界に広げ、日蓮大聖人の願われた世界広宣流布・世界平和を実現している『仏意仏勅の組織』」ということである。
生命尊厳の思想を世界に広める実践とは、元品の無明と対峙し、「仏法の正邪」をめぐる思想戦を展開することを意味するはずだ。しかし、先に述べたように、今の学会では、「仏法の正邪」による判断よりも「組織による決定」を重視する傾向が強くなっているように思われる。私には、そのことが、「生命尊厳の思想」を現実に広める力を弱めているように感じられるのである。
これは、「生命尊厳の思想」の「有名無実化」と言えるのではないだろうか。自らの組織の正統性を示す根拠として「生命尊厳の思想を世界に広げる」と掲げながら、その思想を最も身近な会員に対して実践できないのであれば、その理念は、単なる標語に成り下がってしまう。
生命の尊厳を語るのであれば、まず、目の前にいる一人一人の会員の人格と尊厳を尊重し、その多種多様な声に耳を傾けることから始まるはずである。教義について真剣に問い、説明を求めている会員に対して、対話による解決ではなく、組織の決定によって応じるのであれば、「生命尊厳の思想を広げる」という実践との間に、大きな矛盾が生じるのではないだろうか。
まとめると、創価三代の会長が厳格に求めてきたのは、組織への盲従ではなく、「仏法の正邪」に立脚した信心であったはずである。学会は本来、「仏法の正邪」を明らかにし、その正義を社会に広げる「折伏の団体」であり、そこにこそ、仏意仏勅たる所以があった。
それが、いつしか「仏法の正邪」ではなく「組織の決定」が正邪の基準となり、組織に異を唱える会員を組織論によって処分するようになった。それは単なる運営上の問題ではない。創価学会の信仰そのものが、「仏法中心」から「組織中心」へと変質していることの表れではないだろうか。
しかし、そのような「組織信仰」が広がるならば、「生命尊厳の思想」を社会に広げる以前に、組織自身が、「組織信仰」に与しない会員一人ひとりの生命と人格を尊重できなくなるという、重大な矛盾を抱えることになる。その影響は、活動家・青年の減少という、最前線の組織における停滞・衰退という形でも、現れているのではないだろうか。そして、これは、世界広宣流布、世界平和の実現という、日蓮大聖人の御遺命であり、創価三代の会長の念願を、完全に失わせ、世界を永遠に暗黒に陥れることになりかねないのである。
今、問われているのは、単に一会員の活動態度や役職の適否ではない。学会は、何を根本として立っている組織なのか、ということではないだろうか。組織の決定を絶対視するのではなく、御書に照らし、仏法の正邪を問い、誤りがあれば、たとえそれが組織の決定であっても、勇気をもって声をあげ、正していく。その精神にこそ、創価三代の会長が命懸けで築き上げてきた学会の本来の姿があるのではないだろうか。守るべきは、学会が本来掲げていた仏法の正義である。その正義を失えば、いかに大きく、いかに立派な理念を掲げていても、仏意仏勅の団体とは言えない。
私は、これからも「組織の論理」ではなく「仏法の正邪」を基準として、今後も問い続けていきたい。それは、学会を壊すためではなく、学会が本来の学会であることを心の底から願っているからである。そして、創価三代の会長の師弟の精神と、世界広宣流布・世界平和という大願を、未来へ正しく受け継ぐためである。
世界が混迷を深めている現代にあって、学会が「日蓮仏法を根本とする団体」として希望の光を放つのか。それとも、「組織を根本とする団体」へと完全に変質していくのか。
今、まさに、その岐路に立っているのではないだろうか。
創価大学30期 東京都 荒川区在住 上野 大一
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