日蓮大聖人の「発迹顕本」と「神格化」に関する一考察

投稿者:創価大学30期 上野 大一

7月6日に「教学要綱 説明会の顛末と今後」と題した投稿をさせていただいたが、その中で、7月1日よりSOKAnetで配信されている原田教学部長の「教学部 教授補登用講座 第1回『開目抄』動画」について触れた。

今回、この動画に関する一創価学会員としての私見を、少々述べさせていただきたい。

【従来の教義解釈】

本題に入る前に、この考察で検証する従来の学会教義を確認したい。それは、

「日蓮大聖人は、凡夫の身のままで、※根本の仏=久遠元初自受用報身如来と顕れ、その御生命を認めた御本尊への信心により、大聖人と同じ久遠元初の命が、現実に生きる我々の生命に涌現する」

という教義である。

(※原田教学部長の講義で「久遠元初自受用報身如来」という言葉はでてこないが、「根本の仏」とは、これを指すものとして、論を進めさせていただく)

この教義を簡潔にまとめると、以下のようになる。

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①発迹顕本
日蓮大聖人が、凡夫の身のままで、久遠元初自受用報身如来と顕れる

②人法一箇の御本尊
その仏の生命を認められた御本尊を御図顕

③凡夫成仏
人法一箇の御本尊を信じ、題目を唱える我々の身に、大聖人と同じ仏の生命が湧現
—————————————-

この三つの教義はそれぞれ密接に関連しており、一つの教義体系のように、どれか一つに変更があれば、他の二つの解釈についても変更を余儀なくされるものである。そして、これらの教義は創価学会の教義の根底を成すものであり、「人間革命」や「宿命転換」も、これらの教義を現代的に展開したものと言える。

信仰の目的である「凡夫成仏」に関わる重要な教義のため、安易な解釈の変更は絶対に許されるものではない。仮に表現の変更などを行う場合は、それぞれの関連性に細心の注意を払ったものでなくてはならない。

教義の細かい内容については後述するが、本稿を読み進めるにあたっては、まず、この三つの教義とその関連性を念頭に置いていただきたい。

それでは本題に入る。

【開目抄講義における違和感】

従来、開目抄は「人本尊開顕の書」とされ、そのように称する大きな理由の一つが、日蓮大聖人が「久遠元初の自受用報身如来」の本地を顕されたとする「発迹顕本」だが、原田教学部長の開目抄講義では、この「発迹顕本」の説明が全くなく、まず、ここに強い違和感を覚えた。

それに加え、「根本の仏」に関連する説明で、「大聖人の神格化」という新たな教義の解釈が提示された。

講義動画32分09秒頃から、原田教学部長は「大聖人の神格化」について、次のように述べている。

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日蓮正宗(日顕宗)の教学では、『御本仏』という表現には、日蓮大聖人が根本の仏であり、久遠実成の釈尊もその垂迹、仮の姿であるという意を含んでいますが、これは大聖人の御書には見られない解釈です。 

池田先生はよく人間を離れて仏はいないと語られました。死身弘法・不惜身命で戦う一人の人間の内面にこそ、尊厳なる仏の境涯が現れるのです。それが人間主義の仏法です。

(中略)

学会は、宗門のように、超越的存在として大聖人を神格化するのではなく、どこまでも実在する日蓮大聖人のお振る舞いの中に「末法の御本仏」の実像を見ているのです。

(引用終わり)
—————————————–

ここで原田教学部長は「日蓮大聖人は根本の仏」と「人間を離れて仏はいない」を相対させ、後者の正当性を立証するための説明を展開している。そして、結論部分で「超越的な存在」と「神格化」を並列し、「実在する日蓮大聖人」と相対させ、「学会は、宗門のように大聖人を神格化せず、実在する大聖人のお振る舞いの中に御本仏の実像を見る」としている。

これら一連の説明をまとめると、以下のようになる。

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宗門:日蓮大聖人は根本の仏である

↑↓ 相対

学会:人間を離れて仏はいない

↓ 結論

宗門:超越的な存在として大聖人を神格化

↑↓ 相対

学会:実在する日蓮大聖人のお振る舞いの中に御本仏の実像を見る
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ここから、「日蓮正宗が、大聖人を『根本の仏』とすることは、大聖人を『超越的な存在』とする『神格化』である」という考えが見て取れる。

この理解に基づき、原田教学部長の説明を要約すると、

・日蓮正宗の「大聖人=『根本の仏』即ち『久遠元初自受用報身如来』」という教義は、大聖人を人間から離れた「超越的な存在」として「神格化」することである。

・創価学会はこの教義を用いず、実在する日蓮大聖人のお振る舞いの中に「末法の御本仏」の実像を見ている。

となる。

しかしながら、「日蓮大聖人=根本の仏=久遠元初自受用報身如来」とするのは、創価学会員であれば、人間革命や御書講義等のあらゆる媒体をとおし、何度も繰り返し学んできた基本的な教義だ。

原田教学部長によると、明確には述べていないが、現在の学会はこの教義を「大聖人の神格化」と捉えており、故に「これを用いない」としているようなのだ。

これは、学会の教義、あるいはその解釈が大きく変化していることを示唆するものだが、原田教学部長は、「学会は、宗門のように、超越的存在として大聖人を神格化するのではなく」と、あたかも自明のこととして扱い 、十分な説明はなされていない。

「この教義は日蓮正宗独自のものであり、僧俗一致時代からの残滓で創価学会でもこれを用いてきたが、今日では独自の教団である以上 、これを用いない」

ということなのかもしれないが、そもそも、学会が宗門の邪義としてきたのは「法主信仰」「僧俗差別」「化儀の悪用」などである。

「大聖人を根本の仏とするのは邪義」など、一切聞いたことはなく、自明のこととして扱うには無理が過ぎる。

また、むしろ、これまでの学会の教学では逆で、日蓮大聖人が凡身のまま「根本の仏として顕れた」発迹顕本によって「我々凡夫の成仏の道が開かれた」というものでなかったか。

池田先生の「開目抄講義」には次のようにある。

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いわば、末法の全民衆の発迹顕本の最初の一人となられたのが日蓮大聖人であられる。

そして、日蓮大聖人は、御自身の発迹顕本を証明されるために、また一切衆生が発迹顕本するための明鏡として、御本尊を御図顕なされた。

まさに、大聖人は、全人類の柱です。一切衆生が仏性を開いていけるのは、日蓮大聖人の発迹顕本のおかげだからです。「開目抄講義上」2006年発刊 (p16〜p18)

(引用終わり)
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【「根本の仏」に関する教義解釈の検証】

ここから「根本の仏」に関する教義の検証を試みてみる。

まず、日蓮正宗における教義はどうであるか。

中興の祖であり、教学の基盤を築かれたとされる二十六世法主日寛上人は、次のように述べている。

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連祖大聖・佐渡已後に今日・凡身の迹を開して久遠元初の本を顕す豈・発迹顕本の現証にあらずや「六巻抄第五巻 当流行事抄」(p165)

人の本尊とは、即ち是れ久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・大慈大悲の南無日蓮大聖人是なり「六巻抄第二巻 文底秘沈抄」(p102)

我らこの本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖上人なり「観心本尊抄文段」 (p548)

(引用終わり)
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日蓮大聖人は凡身を開いて「久遠元初自受用報身の再誕」と顕れた、とされ、御本尊に対する信心によって、信仰者自身が「大聖人となる」とする。

それでは、学会はどうか。

初代会長・牧口常三郎先生の言葉を引用する。

(1943年8月に「特高月報」の末尾に宗教運動の研究資料として摘録された「創価教育学会々長牧口常三郎に対する訊問調書抜萃」より)

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人の本尊と云ふのは、法報応の三身が互に融通する上での自受用報身如来であり、久遠の智徳を表面として、内面では法身仏と応身仏とも交渉する夫れが末法には人格者としての日蓮大聖人を信じ奉って木像にも絵像にも作って、猶生きて居られる如く敬ひ奉るのであります。

此の自受用身の人格に妙事の三千の法が具って居る処が人即法の本尊であり、三千の法に自受用身の具って居る処が法即人の本尊であり此の互具一体の処を人法一箇とも一体とも申して私達の帰依する仏様であります。

(中略)

信行具足の上に境知冥合した処の信智は世界の所有の智慧の上位にあるもので、又如何なる世間の学問智識にも適当さるべきものであります。

「牧口常三郎全集第10巻」 1987年発刊 (p197~p198)

創価教育学会の信仰指導の根本観念は前に申上げた通至上最高絶対無二の久遠本仏である処の本門の本尊に帰依するのみでありまして、それ以外の如何なるものをも信仰の対象として礼拝する事は、所謂信仰雑乱を来す結果となりますから、絶対に之を排斥拒否して居るのであります。

「同書」(p210)

(引用終わり)
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日蓮大聖人を久遠本仏とし、人法一箇の御本尊に帰依することで境智冥合し、世界最上の信智が生じるとされている。ここでいう信智とは仏界の生命から湧く智慧のことである。

二つ目の引用は、久遠本仏たる本門の本尊を絶対の信仰の対象とし、それ以外を一切認めないという牧口先生の「謗法厳戒」の厳しい姿勢が拝される。

次に、第二代会長・戸田城聖先生の1950年の論文「凡夫と御本尊」より引用する。

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われわれが、日々拝する大御本尊は、われわれ凡夫とは関係のない雲の上の存在であり、尊上無比の存在であると拝し、われわれ下賎の者の、つたない日常生活現象とは、およそかけはなれた存在であると拝することは、誤りである。

尊上無比の大御本尊は、じつに日蓮大聖人の御当体そのものであらせられるのである。ゆえに、御義口伝には「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書全集p760〉とおおせられている。

(中略)

久遠元初の自受用身の御当体であらせられる大聖人の御肉体が、そのまま大御本尊であらせられるのである。ゆえに、われわれは、この仏力・法力をあおいで、信心修行をはげまなければならない。

大聖人は仏界所共の人界をお示しくだされたのにたいし、われわれは、大聖人の大慈大悲に浴し、大御本尊の光明に照らしいだされて、初めて人界所具の仏界が開覚されるのである。

「戸田城聖全集第1巻」1965年発刊(p269~p271)

(引用終わり)
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論文の冒頭で人法一箇の義を説明されている。そして、日蓮大聖人を「久遠元初の自受用身の御当体」とし、人法一箇の御本尊への信心修行により、我々の仏界が開覚されるとされている。

次に、第三代会長・池田大作先生による1977年の「生死一大事血脈抄講義」から引用する。

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上行菩薩の本地は久遠元初の自受用報身如来です。本来、妙法の大地に住し、人法体一である最も根本の仏なのであります。故に「過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈」なのです。無作三身如来の内に脈打っているその生命こそ、妙法蓮華経ー南無妙法蓮華経にほかならないのであります。「生死一大事血脈抄の池田会長講義」 1977年発刊 (p25)

御本仏日蓮大聖人のご生命も南無妙法蓮華経であり、その大聖人のご生命をそのまま「すみにそめながして・かきて候」と仰せられている御本尊も南無妙法蓮華経である。そして、もったいないことでありますが、私ども一人一人の生命もまた、同じ南無妙法蓮華経であると、こう信じて、南無妙法蓮華経と唱えるとき、私どもの生命に生死一大事の血脈、すなわち南無妙法蓮華経の大生命が脈々と涌現してくるのであります。「同書」(p37~p38)

大聖人の命を受けるとは、我が己心の大聖人を涌現させる以外の何物でもない。「同書」(p64)

(引用終わり)
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日蓮大聖人を久遠元初自受用報身如来即ち根本の仏とし、御本尊に題目を唱えることで、己心の大聖人を涌現する、とある。

ここまで初代・二代・三代会長の「根本の仏」に関する教義を引用してきたが、いずれも日寛上人のものと同義であり、終始一貫している。

最後に、2015年に発刊された学会の教義書「教学入門 世界宗教の仏法を学ぶ」から引用する。

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日蓮大聖人は外用(外面の姿、はたらき)としては、釈尊から付嘱 を受けた、地涌の菩薩の上首(指導者、中心者)である上行菩薩です。これに対して、大聖人の内証(内心の覚りの境涯)は、久遠元初の自受用報身如来です。

(中略)

私たちが南無妙法蓮華経の御本尊を信じて自身の内なる妙法を開き顕すことは、自身に久遠元初の仏の生命境涯を顕すことです。「教学入門 世界宗教の仏法を学ぶ」 2015年発刊 (p172)

(引用終わり)
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「久遠の仏の生命を自身に顕す」とは、日寛上人の「大聖人となる」と同義である。

以上のように、文献で確認する限り、少なくとも2015年時点までは 、学会教学は三代会長のご教示と整合し、また、日寛上人の教義を一貫して採用してきたことが分かる。

【現実の人間に引き戻すための教義】

また、この教義は、日蓮大聖人の神格化どころか、その反対である「仏法を人間に引き戻すもの」であることを、池田先生はたびたび述べられている。

まず、先に引用した池田先生の「生死一大事血脈抄講義」から再度引用する。

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血脈は元来、衆生の生命自体に永遠に流れているものであり、法体の御本尊と衆生の生命との冥合、そして、衆生と衆生との感応のなかに、生死一大事血脈は厳然と脈動するものであるといわれているのであります。

この衆生即人間に原点をおいた血脈論こそ御本仏の志向あそばされた大慈大悲の人間仏法の骨髄であり、眼目であり、まさに未曾有の哲理なのであります。「生死一大事血脈抄の池田会長講義」 1977年発刊 (p112)

(引用終わり)
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僧俗一致時代の講義であるが、その時点で既に、池田先生は「衆生即人間に原点をおいた血脈論こそ御本仏の志向」と言われ、それを「人間仏法の骨髄、眼目、未曾有の哲理」と結論されている。

次に、1994年の先生のスピーチを引用する。

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そもそも日蓮大聖人の戦いも、ある面から言えば、″仏教を人間化する″戦いであられたと拝される。人間の実生活から遊離していた仏教を、人間の手に取り戻し、現実の生活法として教えられた。

「仏とは、人間(凡夫)である」「人間(凡夫)こそ、仏である」こう叫ばれた。

当時、日本でも、阿弥陀仏とか、大日如来とか、「仏」を遠い、超越的なものとして説く仏教が流行していた。また法華経での仏も、一般には、人間とはかけ離れた存在としてとらえられていた。それらを大聖人は逆転された。

「日蓮本仏論」の思想的な意義も、ひとつには″仏教の人間化″にあったと拝される。

池田大作全集84巻 第三回ドイツ最高会議 (1994年5月26日)

(引用終わり)
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「日蓮本仏論」とは、日蓮大聖人を「根本の仏」とする考えのことである。「魂の独立」後のスピーチで、池田先生が「日蓮大聖人を『根本の仏』とする考えは神格化ではなく、むしろその反対の『人間化』にある」とされたことは、非常に重要である。

「法華経の智慧」からも引用する。

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(結果として、人間から遊離してしまった小乗経、権大乗経が、法華経寿量品における「”今の現実”から離れずに、”永遠”を見る」という釈尊の発迹顕本によって統合された事を踏まえ)

名誉会長:「人間・釈尊」に帰り、なおかつ「永遠の仏」という、”神格化以上”の深い宗教的世界を開いた。人間に即しつつ、人間が人間自身を無限に超え行く道を開いたのです。

斎藤:そう考えると、私達は、とかく「永遠の仏が明かされた」という「顕本」の側面だけを重視しがちですが、「発迹」の面が大事である、と。「発迹」には「人間・釈尊」にどこまでも即していく、つまり具体的・現実的な人間を離れず、そこに真実を見いだそうとする決意が感じられます。

名誉会長:「発」とは「開く」という意味です。「迹」を「開く」というのは、譬えて言えば、太陽を覆っている雲を取り除くことです。雲を除けば、燦燦たる太陽の光が現れてくる。これが「本地」です。雲があるからといって、他の所に太陽を求めるのではない。そこを離れないのです。そこに本地があるからです。

須田:「人間へ帰れ」と言うのは、わかったのですが、ただ実際には、「永遠の仏」とか「常住此説法の仏」と言われても、ピンとこない人が多いかもしれません。人間を超えた”スーパーマン”のような感じにとられかねないと思うのですが・・・。

遠藤:実際、一般の仏教学でも、寿量品の釈尊は、ほとんど神格化して、扱われています。

名誉会長:だからこそ、大聖人は御本尊を顕されたのです。これ以上の現実はない。具体はないのです。大聖人は、私たち末法の凡夫が、御本尊に妙法を唱えることで、「常住此説法の仏」と一体になれるようにしてくださったのです。

人法一箇の御本尊です。”人”の側面は、久遠元初の自受用報身如来。”法”の側面は、事の一念三千です。だから、戸田先生は、久遠元初の仏のことを「一念三千様」とも言われていた。御本尊を受持し、広宣流布に戦うことによって、私どもの生命に「常住此説法の永遠の仏」が涌現してくるのです。「法華経の智慧4巻」 1998年発刊(p72~p74)

(引用終わり)
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ここで池田先生は、人々から遊離し神格化してしまった仏を”現実に”人間に戻す方途として、久遠元初の自受用報身如来を”人”、事の一念三千を”法”とする、「人法一箇の御本尊」の受持を挙げられている。

また、「発迹顕本の発迹(迹を開く)の意味に言及され、そこに「人間を離れない」という意が込められている」とある。

ここに関連した内容として、「御書の世界」からも引用する。

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どこまでも凡身のうえに、自受用身の生命が顕現していくのです。ここを見誤ると、成仏とは、人間を離れた超越的な存在になることだという誤解が生じる。日蓮大聖人も凡夫の身を捨てられたわけではない。凡夫の身そのものに久遠の仏の生命が赫々とあらわれている。

もう一つ、大事なことを言いたい。それは、この原理は私たちにとっても同じである、ということです。苦難を越えて、信心を貫き、広宣流布に生き抜く人は、発迹顕本して、凡夫の身のままで、胸中に大聖人と同じ仏の生命を涌現することができるのです。「御書の世界」第二巻 2004年発刊(p106)

(引用終わり)
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発迹顕本の意義を説明するにあたり、「どこまでも凡身のうえに、自受用身の生命が顕現していく」と強調され、発迹顕本は、その本義に叶う限り、「現実の人間に引き戻すための教義」であることを述べられている。

先に引用した日寛上人による大聖人の発迹顕本の説明にも、”凡身”という迹を開いて、とある。

「現実の人間を決して離れない」ことこそが「発迹顕本」の「発迹(迹を開く)」のそもそもの意味なのだ。

これらを踏まえると、原田教学部長が引用した「池田先生はよく人間を離れて仏はいないと語られました」というのは、大聖人の発迹顕本を踏まえたものだと捉えるのが自然である。

それが、なぜ今になって、従来の「人間に戻すための教義である発迹顕本」を説明せず、これまでなかった「大聖人の神格化」という解釈を示し、わざわざ「学会は人間を離れない」と言い直したのだろうか。

私には、非常に歪な教義解釈の展開に感じられるのである。

【教義解釈の検証結果と従来の教義との整合性】

ここまでの教義解釈の検証をまとめると、冒頭に示した三つの教義、①発迹顕本→②人法一箇の御本尊→③凡夫成仏を、創価学会は創立以来ずっと持ち続けてきた。それは、三代会長の言葉で明確に示されている。

そして、それは元々「仏教の人間化」であり「仏法を人間に引き戻すもの」であったことも確認した。池田先生が「日蓮本仏論」の思想的意義を「仏教の人間化」と述べられたとおり、長きに亘って、そのことを繰り返し我々に教えられている。

僧俗一致時代、魂の独立後含め、少なくとも、私が確認した限りでは「根本の仏とすることは神格化である」という解釈を確認できない。

私は、従来の教義を踏まえる限り「大聖人の神格化」という解釈が出てくる余地は全くないと考えている。

それにしても、この新しい解釈は、一体誰が唱えた説で、どのような経緯で形成されたのであろうか 。学会が、どの時点でこの新しい解釈を取り入れたのか、私には全く判然としない。今後は、その出所と形成過程も明らかにされるべきである。

原田教学部長による開目抄講義では、①の日蓮大聖人の発迹顕本の説明がなく、根本の仏を説明するにあたり、それは「大聖人の神格化」であるとし、どこまでも実在する日蓮大聖人のお振る舞いの中に『末法の御本仏』の実像を見ている」とした。

これは、「仏法を人間に引き戻す」ための教義であった①日蓮大聖人の発迹顕本の解釈が、以下のように変更されたことを示唆している。

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<仏法を人間に引き戻すための教義>

従来:日蓮大聖人の「発迹顕本」

現在:日蓮大聖人の「お振る舞い」
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この日蓮大聖人の「お振る舞い」とは、具体的に何を指すのか。そして、なぜその「お振る舞い」が、仏法の人間化になるのか、詳細な論拠の説明はない。

また、①発迹顕本の教義解釈が変更されるのであれば、その前提の上に成り立っている②御本尊の解釈も変更せざるを得ない。そして、その帰結として③凡夫成仏の解釈にも変更が及ぶはずである。

そのような、御本尊論・凡夫成仏論への影響や、それらとの関連性についての説明も一切なされていない。

【結論】

今回の原田教学部長の「開目抄講義」で、従来のような日蓮大聖人の発迹顕本の説明がなく、一方で、「大聖人を根本の仏とするのは、大聖人の神格化」である、という新しい解釈が提示された。そして、日蓮大聖人の「発迹顕本」ではなく「お振る舞い」に仏法の人間化を見るという解釈も示された。

これは、冒頭の凡夫成仏のための三つの教義のうち、①の日蓮大聖人の発迹顕本の解釈が根本的に変更され、それゆえに、②の御本尊、③の凡夫成仏の解釈と関連性が変化したことを示唆する。

そして、そうであるならば、初代・牧口先生、二代・戸田先生、三代・池田先生が示されてきた教義解釈から逸脱しているのではないか、との重大な疑問を生じさせる。

ある人は「『創価学会 教学要綱』は池田先生の監修である」と言うだろう。

しかし、仮にそうであるならば、池田先生による監修過程で、牧口先生・戸田先生以来の教義との整合性について、何らかの説明や指導があってしかるべきである。それが示されない限り、「池田先生監修」という説明だけでは、多くの会員が十分に納得することは難しいのではないだろうか。

この三つの教義は、学会創立以来の教義の根幹を成すものであるため、これらの変化は、学会における信仰活動そのものが、従来とは異なる内容へと根本的に変化している可能性を意味する。故に、その影響は、教学や信仰指導、広宣流布の実践に広く及び、それに携わる学会員一人ひとりにも大きな影響を及ぼしかねない。

にもかかわらず、明確な説明はなされていない。そして、今回の御書講義のように、明言を避けながら、新しい教義解釈を”ステルス的”に会員に徐々に浸透させようとしているかのような印象を与える。

これは、結果として、学会教学に対する信頼を、そして、学会が推進する広宣流布の活動そのものに対する信頼を、著しく損いかねないのではないか。

それを避けるためにも、教学部はじめ新しい教義解釈を主導した人々は、過去との整合性が担保されていることを示し、且つ、その変更点と根拠を明確に説明しなければならない。そして、正々堂々と会員の教学的疑問に答える場を設け、納得と理解を生む回答をもって、新しい教義の解釈等の浸透を図っていくべきである。

現時点では、「発迹顕本を説明しないこと」も「日蓮大聖人の神格化」なる新しい解釈も、そして、「大聖人のお振舞い」とは一体何を指すのかも、詳細な説明が尽くされたとは、ほど遠い状況である。故に、それらは「己義」と判断せざるを得ない。そして、そのような己義は、

「時の貫首たりといえども、仏法に相違して己義を構えば、これを用いるべからざること」(御書全集p1618)

とあるとおり、絶対に用いてはならないことを、最後に強調しておきたい。

今後、この「大聖人の発迹顕本」、「大聖人の神格化」、そして「大聖人のお振る舞い」という新しい教学的解釈に関し、

・創価三代会長が示された教義との整合性はどのように考えているのか。

・従来の大聖人の発迹顕本を説明しないまま、御本尊と凡夫成仏をどのように考えるのか。

・従来の日蓮大聖人の発迹顕本を、どのように位置付けているのか。具体的には、教学要綱の「上行菩薩の自覚に立った」という説明との関連性はどうなっているのか。

・従来の「日蓮大聖人即久遠元初自受用報身如来」という教義と「大聖人の神格化」の関係を、どのように考えているのか。

・「日蓮大聖人の神格化」という解釈は、どのような文献に基づいて、どういう経緯で形成されたのか。

・末法の御本仏の実像があるという「日蓮大聖人のお振る舞い」とは具体的に何を指すのか。また、その論拠は何か。

などの点について、まずは地元幹部を通じて学会教学部に、明確な説明を求めていきたい。

創価大学30期 東京都 荒川区在住 上野 大一
(ご意見、ご感想等ございましたら、happy.smokykun@gmail.com までお願いいたします)

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