【投書】うるし千ばいに蟹の足一つ

投書者:くろまにあ
大聖人の仏法は「人法一箇」の法である。
「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」と仰せのように、私たちの信仰は、頭の中だけで教えを遵守するものでも、特定の組織に属して自動的に担保されるものでもない。自身の振る舞いを通して社会に正義を示しゆく主体的な実践のなかにこそ、日蓮仏法の血脈は流れる。
しかし、その清浄な信仰の連鎖を脅かす最大の敵は、外ではなく常に「内なる油断」にある。
仏法の世界において、他者に影響を与えるリーダーの振る舞いは極めて重い。大小を問わず、指導的立場にある者は、縁するメンバーの人生と成仏への責任を担っているからである。
ゆえに、リーダーの不徳や誤りは単なる個人の過失には留まらない。なぜなら、主導的立場にある者の傲慢な振る舞いこそが「信仰への不信」を生み、結果として健気な会員の「信」を捨てさせる動機を作ってしまうからだ。大聖人が「正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり」と教えられた通り、現代において立場を利用して会員の心を折り、信を奪う原因を作る者こそが本質的な意味での「謗法」に他ならない。
大聖人は、僅かな悪が致命的な崩壊をもたらすことを教えられ、「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」と喝破された。どれほど巨大で優れた組織であっても、箱の中の腐ったミカンが周囲を伝染させるように、わずかな不正や慢心という一滴の毒が全体を急速に蝕んでいく。だからこそ、創価三代の会長は不正や悪に対して常に峻烈であり続けた。善を生ずることと悪を滅することは表裏一体であり、慈悲を前提とするからこそ、正義を破壊する悪に対しては断固たる態度で臨まねばならない。
「月月日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」御本尊に第六天が示されているように、私たちの心の中には仏と魔が同座する。日常の生活では、心の隙間には慢心やわずかな悪が生じてしまうものである。だからこそ、日々自らの心を見つめ、その濁りを排していく主体的な姿勢が大切であり、この心が自身と組織を浄化していく原動力となる。
人間が本然的に備える三大欲求は、保身の働きともなるが人類の存続には不可欠であるため、それを取り除くことはできない。しかし、心に隙を作ればその働きは他者から搾取し、身内を欺く魔の働きへと牙をむく。これが悪の本質であると私は考える。
歴史上、悪人は常に自らの咎を隠蔽し、自己保身のために同類と結託し、権力を利用しては地位を守ろうと画策してきた。それでも学会がこれまで清浄な生命力を保ち、腐敗を免れてこれたのは、池田先生の悪に対する峻烈な姿勢が、組織の巨大な「浄化作用」として機能していたからに他ならない。
しかし2010年以降、先生が表舞台に立たれなくなってから、原田執行部は急速な変質をしてきた。これはまさに、最大の浄化作用を失った結果であった。
「下から突き上げろ」「騙されてはいけない」「政治を監視せよ」先生が身を挺して会員に教え託されたのは、権力を盲信するなという鋭い監視の目であった。「善を保つこと」と「悪を排除すること」が同義であるという仏法の要諦を完全に見失った現執行部は、先生に変わる自浄作用を保つために、本来、会員の声を真摯に受け止めるべきでありながら、自分達の腐敗を指摘をする者に対して、「異端」「反逆」と烙印を押して次々と排除してきた。これによって自浄能力は完全に消え、組織正常化の機会を失なった。
大聖人は「謗法不信の失を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し」と厳しく戒められた。慈悲を前提とする私たちは、他者に対して寛容かつ穏やかに接するべきであるが、悪に対する曖昧な態度は、結果として善を破壊することに繋がる。
執行部の腐敗に対し、波風を立てまいと声を上げず黙認することは、悪に加担することと同義となる。組織が正常であるための生命線は、形式主義を排し「一人一人の声に耳を傾ける」真摯な姿勢の徹底であり、会員からの率直な意見や諫言こそが、悪を見抜き組織を維持する最高の防波堤であったはずだ。この監視の目を緩め、声を上げることをやめてしまえば漆千杯の組織は崩壊する。
仏法を護持し、平和社会を築くとは、盲目的に上からの命令に追従することではない。自らを律して教学を学び、何が正しく何が悪なのかを見極めること。そして一人一人が主体的に「清浄な連鎖」を広げていくことこそが、本来の広宣流布の戦いである。
この精神を堅持し、権力の魔性と戦い続ける者こそが、師の精神を正しく受け継ぐ「真の弟子」であると私は確信する。


全面的に同意致します。
特に、[善を生ずることと悪を滅することは表裏一体であり]、ここが「要」と思いますし、
「池田先生の悪に対する峻烈な姿勢が、組織の巨大な「浄化作用」として機能していた」は、しみじみその通りだと感じます。悪と闘うことは難しい・・。
「教学要綱」の内容が、先生のご指南と相異していると認識しても、現執行部に抗することは反逆に通ずるのではないかと思い、声を上げられない「人に良い方?」が多いと感じています。師弟(不二)の道を往こうとするのか、組織内に埋没するのか?分岐点を選ばねばなりません。生き方が問われているのですね。