【投書】池田先生のご遺言

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投書者:虹さん

池田先生が本部幹部会で「私の遺言」と語られた指導。

私の知る限り、先生がそのように弟子へ言い残された指導は、2006年3月14日付の聖教新聞に掲載されたものが、最後ではないかと思う。
今も、古びた聖教新聞を手に取ると、当時の光景が鮮やかによみがえってくる。

第58回本部幹部会。
池田先生が「師弟勝利の銅鑼」を力強く打ち鳴らし、弟子を鼓舞される写真が、紙面に大きく掲載されている。

見出しには、
「生まれ変わったように光れ」
そして、ご遺言として語られた指導には、
「悪師を見ぬけ!」
との文字。

その言葉が、今も私の胸に深く突き刺さる。
紙面を開くたび、眼前で師の叫びが聞こえてくるようで、わが命が熱くなる。

私は、この指導を、単に「悪人と戦え」という意味だけでは受け止めていない。

昨今、目に見える悪意を持った権力者よりも、「組織のため」「皆のため」という善意を掲げる組織主義者の方が、一人の人間を苦しめることがある。

自らは創価学会(組織)のために正しいことをしていると信じているからこそ、目の前にいる一人の痛みが薄れゆく。

「正しい目的のためならば、一人の犠牲もやむを得ない」と考え始めたとき、善意と信念は人間を抑圧する力へと変わってしまう。
そこにこそ、全体主義に潜む魔性があると、私は捉えている。

肩書や権威に無条件で従うのではなく、指導者や幹部の振る舞いを見よ。
その行動が、一人ひとりに何をもたらしているのかを、自らの目で厳しく見極めよ――。
自身で責任を持ち、自ら判断せよ――。
そのように、弟子へ託された指導ではないだろうか。

師弟とは、盲従ではない。
弟子が指導者を見極め、正しい師を求める。
弟子が、自らの意思と責任で師を決めるのだ。
そして、師匠が守ろうとしたものを、今度は弟子が、自らの責任で守り抜いていく。
それが、本当の師弟ではないだろうか。

池田先生が生涯をかけて守ろうとされたものは、組織の体面でも、役職者の権威でもなかった。
名もなき一人の幸福であり、苦しむ同志の生命の尊厳であったはずである。

民衆こそ尊い――。

だからこそ先生は、
「あなたは、間違っている!」「おかしいではないか!」
と、権威や権力に対して声を上げることのできる弟子を育てようとされたのではないだろうか。

もちろん、これは感情的な反抗を奨励した言葉ではない。
自分の正しさを誇示するために、誰かを攻撃せよという意味でもない。

組織への忠誠よりも、師恩への感謝を。
役職者への服従よりも、庶民への誠意を。
そして、組織の体面よりも、一人の生命の尊厳を上位に置け――。

それこそが、師から弟子へ託された峻厳な遺言だったのではないだろうか。
ここに、創価の人間主義の輝きがあると、私は信じる。

一人を大切にする。
苦しむ同志の声に耳を傾ける。
間違いを見過ごさず、たとえ相手が上位の立場にある者であっても、勇気をもって声を上げる。
そして、自分自身もまた、権威や立場に流されていないかを問い続ける。

そのような学会員の姿にこそ、人間としての生き生きとした魅力が表れるのだと思う。

「生まれ変わったように光れ」

この言葉は、過去の栄光を懐かしむための言葉ではない。
今、この瞬間から自分自身を変革し、祈りと行動をもって、目の前の現実に立ち向かえとの呼びかけである。

古びた聖教新聞の切り抜きは、「昔はよかった」と郷愁に浸るためのものではない。

今いるこの場所で、何を守るのか。
誰のために声を上げるのか。
自分は師の誓願を、どのような行動として現しているのか。

それを問い続け、今を戦い、勝ち抜くための、生きた使命の原点である。

師の遺言は、過去の弟子だけに残されたものではない。
時代が変わり、指導者が変わり、組織の形が変わったとしても、その精神は変わらない。

一人の幸福を守れ。
一人の尊厳を踏みにじる権威を許すな。
正邪を、自らの目で見極めよ。
そして、自らが「生まれ変わったように光る」弟子となれ。

師の遺言は、今を生きる弟子、一人ひとりのものである。
そう――その意味に気づいた、あなたに託されている。

引用:2006年3月14日聖教新聞より

一、ここで御聖訓を拝したい。「師弟契約御書」と言われる「最蓮房御返事」の一節である。

「今の時代は、師に正師と邪師、善師と悪師がいる。その違いがあることを知って、邪悪の師を遠ざけ、正善の師に近づき親しむべきである」(御書1340㌻、通解)

師匠といっても、義の師匠もいれば、邪悪の師匠もいる。

正義の師を求めよ!

邪悪の師を避けよ!

その違いを、鋭く見ぬけ!

決して、だまされるな!――これが、蓮祖の峻厳なる戒めである。

邪悪な師には、従ってはならない。従えば、皆が悪に染まってしまうからだ。

日顕がそうである。宗門が、あれほど腐敗し、堕落したのも、誤った指導者に従ったゆえである。

邪悪な人間は、たとえ師であっても、それを遠ざけ、叩き出していかねばならない。

どこの世界でも、同じことである。わが学会も、断じて油断してはいけない。

役職や立場を利用してインチキをしたり、同志を苦しめる人間が出たならば、絶対に許してはならない。

「あなたは、間違っている!」

「おかしいではないか!」

と厳しく責めぬいて、その悪を暴いていくのだ。

そうでなければ、学会を破壊し、同志を不幸にしてしまうからだ。

その点を厳しく見極めていかねばならない。

これが大聖人の厳命であり、私の遺言であると申し上げておきたい。

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