【投書】池田先生のご遺言Ⅱ ――指導者を見極める基準

投書者:虹さん
前回取り上げた池田先生のご遺言には、さらに次のような指導が続いている。
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引用:2006年3月14日付『聖教新聞』より
それでは求めるべき「正義の師」とは、だれか?
それは三類の強敵と戦い、身命を惜しまず、妙法を唱え広めていく人である。
つまり、法華経のとおりに「難」を受けているかどうか。
それを大聖人は、最大の眼目とされた。
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ここには、指導者を見極めるための重要な基準が示されている。
・学歴や肩書があるか
・多くの人から尊敬されているか
・話が上手か
・組織の中で高い役職に就いているか
そのような外面的な条件ではない。
法華経に説かれる三類の強敵と戦い、身命を惜しまず、妙法を弘めているか。
そして、その行動によって「難」を受けているか。
大聖人は、そこを正師と邪師を見分ける最大の眼目とされたのである。
この指導者の基準を、一部の幹部だけではなく、全学会員が学び、実践していかなければならないと思う。
なぜなら、指導者を見極める眼を失えば、創価学会に所属し、懸命に活動していたとしても、知らず知らずのうちに誤った方向へ進む可能性があるからだ。
組織にいることと、正しい信心を貫くことは、必ずしも同じではない。
だからこそ、一人ひとりが教学を学び、自ら考え、自ら判断する責任を持たなければならない。そのことを、池田先生はご遺言として残されたのだと思う。
しかし、ここで一つの疑問が生まれる。
現代の日本において、日蓮大聖人が受けられた竜の口の法難のように、国家権力によって命を奪われかねない迫害が、同じ形で起こることは考えにくい。
牧口先生や戸田先生が軍部政府の弾圧を受け、投獄されたような法難も、現在の日本社会では、同じ姿では現れにくいだろう。
だが、国家権力から迫害を受けたという事実だけで、その人物の正しさが証明されるわけではない。
何を守るために行動したのか。誰の幸福のために権力と対峙したのか。
何を語り、どのような行動を貫いた結果として、難を受けたのか。
そこまで見なければ、「法華経どおりの難」であるかどうかは判断できない。
ましてや、自らの独善や不誠実、過ちによって招いた批判まで、「正義を貫いたゆえの難」と呼び替えてはならない。また、周囲の人間も、それを「法難」であると取り違えてはならない。
単に、批判されているかどうかではない。一人の幸福と妙法の正義を守り抜いた人間主義の結果として、どのような難を受けているのか、その本質を見極める必要がある。
では、難が見えにくい時代に、私たちは何をもって「正義の師」を見極めればよいのだろうか。
そのためには、「法華経どおりの難」とは何かを、さらに深く学ばなければならない。
また、人間の生命に潜む魔性についても考える必要がある。
仏法では、第六天の魔王、すなわち他化自在天の働きが説かれている。
それは、単に恐ろしい姿をした悪人や、人の命を軽んじる分かりやすい権力者だけを意味するものではない。
私は、現代の組織に現れる他化自在天の働きを、次のように捉えている。
・人の心を欺き、自分の思いどおりに動かそうとする働き
・自らは表に立たず、他人を動かして目的を遂げようとする働き
・上位の権力者には保身から迎合し、弱い立場の人には権威を振るう働き
・他人の喜びや自由、時間を奪い、自分の都合のために利用する働き
そうした魔性は、特別な悪人だけに生じるものではない。
万人の生命に具わる「元品の無明」の表れである。
ここで注意しなければならないのは、「魔王」と聞くと、私たちは分かりやすい悪人や権力者を思い浮かべてしまうことである。
しかし、前回の投稿でも述べたように、本当に見極めることが難しいのは、
「組織のため」
「皆のため」
「創価学会を守るため」
という善意と正義、さらには創価学会の使命を掲げながら、組織の正しさを絶対化し、全体主義へ傾いていく指導者や幹部ではないだろうか。
本人に悪意があるとは限らない。むしろ、自分は創価学会のために、池田先生のために、正しいことをしていると信じている。
だからこそ、目の前で苦しんでいる一人の声が、次第に聞こえなくなる。
いや、耳を傾ける手間を惜しむようになる。
やがて、その一人の声や苦しみを素通りしてしまう。
そして、「忙しい」「全体を見なければならない」「次の会合がある」という言葉で、自らを納得させてしまう。
「創価学会を永続させるためには、やむを得ない」
「あの人には、我慢してもらうしかない」
「組織全体のためには、多少の犠牲は仕方がない」
そのように考え始めた瞬間、その一念の置き場に、天魔が忍び寄るのではないだろうか。
私は、このことに気づいたとき、恐ろしさを感じた。
天魔とは、本人が「自分は天魔である」と自覚して現れるものではない。
自らの正義を疑わず、善意で行動し、組織を守ろうとする。
組織主義――その心の隙に入り込むからこそ、厄介なのである。
そして、この問題は、会長や最高幹部だけの問題ではない。
私自身の問題でもある。
地区の中で、苦しんでいる一人に対して、
「あの人は、仕方がない」
「何度言っても変わらない」
「地区の成果のためには、やむを得ない」
と思った瞬間、私自身が、その地区において天魔の働きを現してしまう可能性がある。
一人を救おうとする祈りを諦め、関わる手間を惜しみ、「仕方がない」と切り捨てる。
その瞬間、私は、自分が批判している組織主義者と同じ生命になってしまうかもしれない。
だからこそ、天魔との戦いは、常に自分自身から始めなければならない。
役職が上がれば、その人の判断が影響を及ぼす範囲も広くなる。
地区の責任者であれば、地区の一人ひとりに影響を与える。
本部職員や中央の幹部であれば、多くの会員に影響を与える。
そして、創価学会の会長という立場に就けば、その判断は、世界中の学会員の信仰と人生にまで影響を及ぼす。
役職が高いことは、その人が正しいことの証明ではない。
むしろ、役職が高くなるほど、自らの生命に潜む魔性を厳しく見つめ、一人の声に耳を傾ける責任は重くなる。
会長という地位は、無条件に「正義の師」であることを保証するものではない。
一歩間違えれば、組織全体の舵を誤った方向へ切り、多くの会員を苦しめる魔性の働きとなる。
全学会員の人生の選択を担う、最も重大な責任を負う立場であることを忘れてはならない。
だからこそ、私たちは肩書だけで指導者を判断してはならない。
その幹部は、何を守ろうとしているのか。
苦しむ一人の声に耳を傾けているか。
異なる意見を持つ人を排除していないか。
自らへの批判を受け止めることができるか。
権力に迎合するのではなく、民衆の側に立っているか。
自分の立場を守るためではなく、妙法と一人の幸福のために戦っているか。
自らに都合の悪い声を、「反逆」「不知恩」「団結を乱す行為」と決めつけていないか。
そして、――正義(人間主義)を貫いた結果として、どのような難を受けているのか!
そこを、自らの目で見極めなければならない。
同時に、その基準を指導者だけに向けるのではなく、自分自身にも向けなければならない。
私は、一人を置き去りにしていないか。
「皆のため」という言葉で、一人の痛みを押しつぶしていないか。
役職や立場を使って、人を従わせようとしていないか。
自分にとって都合の悪い声を、「信心が弱い」「団結を乱す」「恩知らずだ」と決めつけていないか。
人を責めるとき、自分自身は正義の高みに立っていると思い込んでいないか。
正師と邪師を見極める戦いは、外にいる誰かを裁くことだけではない。
自らの生命の中にある、仏と魔との永遠の闘争である。
正義の師を求めるとは、正しい指導者が現れるのを待つことではない。
一人ひとりが教学を学び、祈り、考え、責任を持って指導者を見極めること。
そして、自分自身が、一人の幸福を守る正義の弟子として成長し続けることである。
指導者を見極める眼と、自らの生命を見つめる眼。
その両方を厳しく持ってこそ、池田先生のご遺言を、今に生かすことができるのではないだろうか。
引用:2006年3月14日付『聖教新聞』より
それでは求めるべき「正義の師」とは、だれか?
それは三類の強敵と戦い、身命を惜しまず、妙法を唱え広めていく人である。
つまり、法華経のとおりに「難」を受けているかどうか。
それを大聖人は、最大の眼目とされた。
そして、「自分こそ法華経を知り、法華経を修行している者である」と思いあがっている輩に対しては、「日蓮が受けたような難にあっていないではないか」と厳しく切り返し、責め返しておられる。
(=「最蓮房御返事」のなかで、大聖人は「先に挙げた諸宗の人々は、自分こそ法華経の意を心得て、法華経を修行する者であると名乗っているけれども、日蓮が受けたような難にあっていない」〈御書1341ページ、趣意〉と仰せになっている)
大聖人の御生涯は、まさしく迫害の連続であられた。卑劣な讒言などによって二度、流罪された。頸の座にもつかれた。種々の難は数知れない。すべて経文どおりであられる。
ゆえに大聖人は、「難を受けていない格好だけの者は、ことごとく邪な師である。難を受けきってきた日蓮こそが、正義の師である」と厳然と宣言されたのである。
(=「日蓮は弘長元年には、伊豆の国に流され、文永八年には、佐渡の島に流され、あるいは竜の口で頸の座にすえられる等の難を受け、このほか種々の難は数え切れないほどである。経文のとおりであるならば、自分こそ正師であり、善師である。諸宗の学者は、ことごとく邪師であり、悪師であるとお考えなさい」〈御書1341ページ、通解〉)
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2026年7月24日【投書】池田先生のご遺言
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