座談会御書「四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)消息」2023年(令和5年)8月度

〈御 書〉

御書新版1554㌻7行目~9行目
御書全集1143㌻5行目~6行目

〈本 文〉

 苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへいさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ。

〈講 義〉

 本状は、四条金吾が主君江間氏への折伏が契機となって直面した留難に対する指導・激励の書状です。短い書状ですが仏法の深い哲理を簡潔に明示されています。
 冒頭、一切衆生にとって南無妙法蓮華経と唱える以外に遊楽はないと結論され、法華経寿量品の「衆生所遊楽」(衆生の遊楽する所)との文を引かれて、この文は「自受法楽」のことをいっているのであると教えられています。
 「自受法楽」とは、自身が妙法の当体であり、その妙法の功徳を自身で実感し享受することを言います。また「衆生」とは四条金吾のこと、「所」とは我々の住む一閻浮提の事、「遊楽」とは法華経を持つことであるとして、本当の「遊楽」とは、一時的な楽しみや、安逸ではなく、苦難を乗り越えて獲得するものであり、その秘術が法華経を持つことであると教えられています。さらに、その真の「遊楽」とは、自身が一念三千の自受用身であると開くことであり、それは、法華経を持つ以外にないと断言されています。
 ゆえに、世間の留難が起こっても取り合ってはならないと忠告され、賢人・聖人でもこの留難は逃れられないのだから、いちいち動揺することなく、悠然として題目を唱えていきなさいとご指導されています。
 最後に、苦労があるから「楽」があり、楽があるから「苦」も感じる、苦楽は本来一体のものであるという道理を心得て、苦のみを厭うのでもなく、楽のみを求めるのでもなく、苦楽共に思い合せて南無妙法蓮華経と唱え切ってゆくことこそ自受法楽であるとし、ますます強盛な信心を促されて本状を結ばれています。

 ここで、この御書の背景と、その後の経過について、少し話させていただきます。
 金吾の主君である江間光時は、父、朝時が3代執権の弟という北条氏の中でも有力な名家でしたが、5代時頼の時代に謀叛のため、伊豆の江間に流罪となった悲運の一族でもありました。 大聖人を迫害する元凶である極楽寺良寛の信者であった江間氏を、家臣の金吾が折伏した事で光時は金吾を遠ざける様になり、又、同僚たちの嫉妬による讒言、迫害にもさらされました。その渦中に送られたのが、今日の御書です。
 そして建治3年6月大聖人門下の三位坊が、良観の庇護を受けていた竜象坊に法論を挑んで打ち破ると、逆恨みした良観の一派は金吾が武装して法座に乱入したとデマを流し、江間氏に金吾が信仰を捨てる誓約書を書くようにと脅してきたのです。金吾は江間氏から所領没収と追放を命ぜられます。ところが、その後、主君、光時は重い病に倒れます。そこで医者でもあった金吾は主君の病気の回復を祈りつつ、薬を調合し全力で病気の治療に当たります。大聖人の指導の下、金吾の変わらぬ忠義の行いに主君は元気になり、歓び、金吾に3倍の領地を与えたのです。その勝利の姿に同僚たちはさらに憎悪の炎を燃やして金吾を亡き者にしようと攻撃を仕掛けて来たのです。大聖人は金吾に対し、いい馬に乗らず、酒は外で飲まずに、家で女房と飲みなさい等、軽率な振る舞いを控えるように、難に耐える金吾を励ましつつも細かく注意を促しています。どれだけ金吾の心の支えとなったことでしょう。  
 さてここで私の体験を話させて頂きます。昭和53年に入会して発心し、23歳から伊豆の地で学会、先生と共に人生を再出発 いたしました。振り返ると,たくさんの方々に限りない励ましをもらい、充実した日々でありましたが、又それは、あえて苦難の道を選んだ様にも思います。 私の一番苦しい独身時代であり、もう活動と題目しかないと、毎日3時間 師匠に会いたいと祈っていた頃でした。
 そんな中、昭和60年、青年部で建設した富士宮の白糸研修道場に、池田先生がお見えになりました。新設された部屋で先生と共に唱題が始まった時のことです、突然体に電流が走り、雷に打たれた様になって、ただただ涙が溢れてきたのです。しばらく題目をあげていると、今度は「僕らは、3世に一緒だからね」との池田先生からのメッセージが聞こえてきました。本当に不思議な出来事で、生まれて初めての体験でした。
また62年、伊東平和会館に来られた時には、「戸田先生は、牧口先生が逮捕された下田の地に何度も来られた、その意味で今日は諸君と是非お会いしたかった。」と言ってくださいました。本当に嬉しかったです。それまでの苦労が全て喜びに変わった 瞬間でした。あの苦難の日々があったからこそ、味わうことのできる喜びでした。
 その後、私は結婚して妻と南伊豆の最も因習の深い地域に派遣幹部として 十年間通いました。その時に私たち夫婦で担当する伊浜地区を、先生が「ドクター部健康対談」として聖教新聞に二面にわたり紹介して下さったのです。隅々までスポットライトを当てる様な励ましでした。 そして我が子を先生の元へと祈り、長男が二浪の末迎えた2010年 4月2日、創価大学入学式の場で先生は、「私がつくった創価大学を乗っ取ろとうとする奴がいる」と渾身の叫びを放たれたのです。創価学会の正義を、君が守ってくれと、言われた様でした。
 2016年、安保問題で意見をして、組織を出て自活に入った頃から私は祈りが変わるのを感じました。朝の勤行の時に始めは体のあちこちが痛みがあったのですが、題目を唱えている内に痛みがスッと消えて、「生きていて良かった、今日も一日頑張ろう」と希望が溢れてくるのです。広宣流布の為に物心共に全てを捧げて来たが故に、様々な経済苦も味わいましたが、この頃から自営業の仕事も上向きになり、昨年には本当に苦から解放された様な大きな功徳を頂きました。そして今、そうした沢山の功徳以上に嬉しいのは、先生と共に闘った当時と変わらぬ歓喜の命がこの自活の中に厳然と脈打っていると感じることです。
「苦をば苦と悟り、楽をば楽と開き、苦楽ともに思いあわせて南無妙法連華経と打ち唱え居させ給え。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給え。」
 この御文の通りだと実感する毎日です。法華経を持って生きるとき、人生のどんな出来事も、みな成仏のための因果であり、自身の仏の境涯・絶対的幸福をつかむための材料であると確信して生きることが、本当の「遊楽」であると知りました。池田先生は、「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」と言われています。生涯、この生き方を貫き通していきたいと願っています。
 私は昨年8月、40年ぶりに生まれ故郷の静岡、清水に帰ってきました。今後は自分のいる地域を希望溢れる場所にしていくことが我が広宣流布と決めて謙虚に驕れる事なく精進して行きます。ありがとうございました。


御書講義 動画サイトほか

創価の森

8月度座談会御書履歴

座談会御書 「減劫御書」2000年(平成12年)
座談会御書 「阿仏房御書(宝塔御書)」2001年(平成13年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(世雄御書)」2002年(平成14年)
座談会御書 「高橋殿御返事(米穀御書)」2003年(平成15年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事」2004年(平成16年)
座談会御書 「一生成仏抄」2005年(平成17年)
座談会御書 「上野殿後家尼御返事(地獄即寂光御書)」2006年(平成18年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(世雄御書)」2007年(平成19年)
座談会御書 「減劫御書」2008年(平成20年)
座談会御書 「窪尼御前御返事」2009年(平成21年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(源遠流長御書) 」2010年(平成22年)
座談会御書 「持妙法華問答抄」2011年(平成23年)
座談会御書 「聖人御難事」2012年(平成24年)
座談会御書 「千日尼御前御返事」2013年(平成25年)
座談会御書 「曾谷殿御返事」2014年(平成26年)
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座談会御書 「阿仏房御書(宝塔御書)」2017年(平成29年)
座談会御書 「松野殿御家尼御返事」2018年(平成30年)
座談会御書 「崇峻天皇御書(三種財宝御書)」2019年(平成31年)
座談会御書 「転重軽受法門」2020年(令和02年)
座談会御書 「減劫御書」2021年(令和03年)
座談会御書 「妙密上人御消息」2022年(令和04年)

8月の広布史 ★8月24日★

――「池田先生 入信記念日」――
昭和22年8月24日

■小説「人間革命」2巻 第5章「地涌」

■今日より明日へ №17
「8・24」記念大田・世田谷・杉並区合同支部長会(東京)
〝本物の一人〟よ出でよ

■今日より明日へ №38
「8・24」記念―第1回東京総会

――「聖教新聞創刊原点の日」――
昭和25年8月24日

■小説「人間革命」4巻「怒清」
1950年(同25年)、戸田第2代会長(当時・理事長)の事業が苦境に陥る中、聖教新聞発刊の構想を、戸田会長と若きSGI会長が語り合った日が淵源。

――「壮年部の日」――
昭和51年8月24日

■黄金柱の誉(創価学会壮年部指導集)
1976年(昭和51年)6月、副会長室会議で定められた。