座談会御書 上野殿御返事(水火二信抄)2023年(令和5年)6月度

〈御 書〉

御書新版 1871㌻11行目~1872㌻2行目
御書全集 1544㌻9行目~11行目

〈本 文〉

抑今の時・法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり、或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり、此れはいかなる時も・つねは・たいせずとわせ給えば水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし。

〈通 解〉

さて今の時、法華経を信ずる人がいる。あるいは火のように信ずる人もあり、あるいは水の流れるように信ずる人もいる。
法門を聞いた時は、燃え立つように思うけれど、時がたつにつれてそれを捨ててしまう。水のように信ずる人というのは、常に後退することなく信ずる事をいうのである。
いかなる時も常に退することなく訪ねられるのであるから、水のながれるように信じておられるのであろう。貴いことである。貴いことである。

〈講 義〉

今回の「上野殿御返事」は、同じ題名の御書が20編以上あります。
同じく上野殿の名前である、南条時光に宛てられた「南条殿御返事」も複数あるため、多くの御書には別名が付けられています。
上野殿は、大聖人の住む身延に近い場所に住まわれていた事や、ご供養を携え頻繁に訪問されていた事もあり、宛てられたお手紙は50編を超え、南条家その一族へ送られたお手紙を含めると60編を超えます。
その中で今回学ぶ「上野殿御返事」は、大聖人が57歳の時に送られたお手紙、別名を「水火二信抄」と言います。

〈兵衛七郎〉
上野殿と言えば、「南条時光」と その父が頭に浮かぶと思いますが、父の兵衛七郎に宛てられたお手紙は1通しか残されていません。
大聖人が43歳の時、兵衛七郎が病気を患った際に送られた「南条兵衛七郎殿御書」のみとされています。
時光の父・兵衛七郎に関しては、この1編の御書から人物像が浮かび上がっているようです。
残されている御書はこの1通だけですが、この1通が兵衛七郎の信心を決定させる大きな力となったと思われます。
大聖人は、兵衛七郎が病気と立ち向かうために、迷いである念仏を払い、悪知識にたぶらかされて法華経を捨ててはいけないと教えられました。
この御指南が兵衛七郎の一念を決定づけたのでしょうか、妻の上野尼御前や息子の時光ら、南条家の人々が正法を貫き、後の熱原法難での農民外護や 大石寺開山につながっていったものと思われます。
この「南条兵衛七郎殿御書」では、すでに大聖人に帰依していた兵衛七郎ですが、まだ信仰間もない事もあってか、親族も含め長きに行なっていた念仏信仰を捨てきれず迷っている姿が拝されます。
大聖人は、宗教の五綱を示され、法華経の絶対なることを強調され、念仏を捨てて、妙法に対し強盛な信心を貫くよう勧められています。

南条兵衛七郎殿御書
〈本文〉
「一家の人人・念仏者にてましましげに候いしかばさだめて念仏をぞすすめまいらせ給い候らん、我が信じたる事なればそれも道理にては候へども・悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人人なりと・おぼして・大信心を起し御用いあるべからず、大悪魔は貴き僧となり父母・兄弟等につきて人の後世をば障るなり、いかに申すとも法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用いあるべからず」御書全集P1497
〈通解〉
あなた一家の人々は念仏信仰者であったから、きっと念仏を勧めていることであろう。自分達が信じた事であるから、それも道理であるけれど、人々は悪魔の法然にたぼらかされていると思って、大信心を起こし、これを用いてはならない。大悪魔は貴い僧の姿で、父母・兄弟などにとりついて、人の後世を妨げるのである。様々な言い方をして「法華経を捨てろ」と欺こうとするが、それを用いてはならない

僕は、ここで言う「法華経を捨てさせようとする魔の働き」とは 、現代で言えば”先生に学んだ正義” を捨てさせようとする働きであると受け止めています。
この御書を拝した時に感じた事は、先生が教えてくれた正義を理解していない人達が、様々な言葉で僕たちの行動を妨げようとしてくる事と重なります。
自活の皆さんの置かれている状況に類似しているように思えましたので、ご紹介させていただきました。
ぜひ皆さんも拝読していただきたいと思います。

〈入信〉
話は前後しますが、兵衛七郎が大聖人に帰依した時の経緯や詳細が分かる資料は残されていません。
当時、武士の中でも常時鎌倉にいたのは北条一門もしくは御内人(みうちびと)と言われる限られた人だったと言われます。御家人だった兵衛七郎は地頭として上野郷に住んでいますが、幕府の警備にあたる大番役として、1年か2年に1度、1ヶ月から2ヶ月の鎌倉勤務がありました。
兵衛七郎が大聖人と逢われたのは、その期間の鎌倉在勤中であろうと言われております。 南条家は元々、伊豆の田方群にある南条郷、今でいえば世界遺産のある韮山反射炉のあたりに住んでいました。
当時の有力者などは、居住する地域を苗字や呼び名として示されてるので、元は伊豆の南条郷の出身であるため南条殿と呼ばれます。ですが、上野郷の地頭であるため「上野殿」とも呼ばれます。
同じ田方群にある北条郷は北条政子が生まれ育った北条家の本貫地とされます。

〈南条家〉
南条家の家族、兵衛七郎と夫人の間には、5男4女の子供がいます。男子2番目の七郎次郎が南条時光です。
(男子)
・七郎太郎 御書に記述なく詳細不明。文永11年8月10日水死。
・七郎次郎 時光
・七郎三郎 亡くなっている。詳細不明。
・七郎四郎 亡くなっている。詳細不明。
・七郎五郎 弘安3年(1280)16歳で死去。
女子では長女の蓮阿尼が日目上人の母になります。
日目上人と時光は、叔父と甥の関係ですが年の差は1才です。
なので時光と姉の蓮阿尼は歳の離れた姉弟だったと思われます。
(女子)
・姉(蓮阿尼) 新田五郎重綱の妻。日目上人の母。
・姉(妙一) 石川新兵衛入道の妻
・女(阿原御前) 阿原□殿の妻
・女(妙華) 中之御前
そして、父・兵衛七郎が亡くなったのは時光7歳の時。
長男の七郎太郎が家督を継ぎますが、その兄も若くして亡くなり、大聖人が佐渡赦免となった年、16歳の時光はすでに家督を継いでいたとされます。

〈時光〉
大聖人が佐渡へ流罪されてから身延入山まで賜書(ししょ)がないため、その間の詳細は不明ですが、身延に入山後は大聖人のもとへ ご供養の品をたびごとに送り、時光自身も供養を携え何度も訪問をしています。
大聖人にお仕えする姿勢は弛(たゆ)まず、池上でご入滅された時は、大聖人のもとに駆け付け、葬儀にも参列している事から、師に対する恭敬の念を最後まで貫かれた事がうかがえます。
このような時光に対し、大聖人がたびごとに送られたご供養の御礼や励ましのお手紙は、檀那の中でも一番多く残っており、南条家関係者に宛てられた書は60編を超えるものが残されています。 また、熱原の法難の際にも権力者の迫害から農民信徒の外護に努められた事や、日興上人が身延離山をされた際に受入れ、大石寺のある大石ケ原を提供したのも時光です。
以上、南条時光に関して簡単にまとめさせて頂きました。
南条家に宛てられたお手紙は多く、今後も私たちが触れる機会が多くあるため、わずかでも参考にしていただければと思います。

〈対告衆について〉
続けて、今回の御書に移らせて頂きますが、その前に本状の対告者について一言追加しておきます。
ここまで、上野殿につてお話をさせて頂きましたが、実は今回のお手紙の対告者は、「上野殿」ではなく「持妙尼」に宛てられたものとの研究があります。
ここで、持妙尼について詳細は省かせて頂きますが、御書でみられる「妙心尼・持妙尼・窪尼」は同一の人とされています。
夫の闘病中に尼となって「妙心尼」。のちに「持妙尼」との名を頂き、窪と呼ばれる地域に住んでいた事から「窪尼」と呼ばれます。
持妙尼は、高橋入道の妻で、富士郡賀島カジマ(現在の富士市)に住んでいました。
日興上人の「弟子分本尊目録」には、「高橋六郎兵衛入道の後家尼は、日興の叔母なり」とあり、日興上人の母である妙福尼の妹にあたります。
夫の高橋入道が病気で亡くなった後、実家の西山(富士宮市芝川)に戻られた後も、南条家と同様、大聖人にご供養を届けるなどをし、熱原法難の時には農民信徒の外護に努めました。
持妙尼の住まいは、時光が身延に向かう際の道中にある事から、身延に向かう際はその都度 訪れ、幼子をかかえて後家尼となった持妙尼の生活を気遣うとともに、ご供養の品を預かり、大聖人のもとへ届けたと推察されます。また、その帰りには大聖人のお手紙を届けるなど、大変に親交が深かったと思われます。
いずれにしても、今回の御書では、こうした純粋な信仰を貫く門下に対し、心からの感謝と激励がつづられていますので、大聖人のお心を学んでいきたいと思います。

〈講 義〉
今回の御書は別名「水火二信抄」と言われます。
信仰には「水の如き信心」と「火の如き信心」、二つの姿勢がある事から、「水火二信」と付けられたと思われます。
この抄は全体でも御書全集の1ページという短い御書でもありますで、通解を通して全文をご紹介いたします。

〈全 文〉
上野殿御返事/建治四年二月二十五日 五十七歳御作 与南条七郎次郎
「蹲鴟(そんし)くしがき焼米栗たかんなすづつ給び候い了んぬ」
(里芋、干し柿、焼き米、栗、タケノコ、酢の筒など供養に対する感謝を述べられます)

「月氏に阿育大王と申す王をはしき、一閻浮提四分の一をたなごころににぎり竜王をしたがへて雨を心にまかせ鬼神をめしつかひ給いき、始は悪王なりしかども後には仏法に帰し六万人の僧を日日に供養し八万四千の石の塔をたて給う」
(インドの阿育王は、竜王を従え鬼神を召使い、一閻浮提の4分の1を支配した。はじめは悪王であったが、のちに仏法に帰依して6万の僧を供養し、8万4千の塔を建てた)

「此の大王の過去をたづぬれば仏の在世に徳勝童子無勝童子とて二人のをさなき人あり、土の餅を仏に供養し給いて一百年の内に大王と生れたり」
(この阿育王の過去世を訪ねれば、徳勝童子と無勝童子という子供が、過去世の釈尊に土の餅を供養した功徳によって、100年後に大王として生まれたのである)

「仏はいみじしといへども法華経にたいしまいらせ候へば螢火と日月との勝劣天と地との高下なり、仏を供養してかかる功徳ありいわうや法華経をや」
※ 続いて、仏と法華経に対する供養の功徳の差を語られます。
(仏は尊いというものの、法華経に比べれば螢火と日月ほどの勝劣がある。天と地ほどの高低がある。(阿育王の様に)仏を供養した功徳がこれほどあるのだから、法華経を供養する功徳は それ以上なのである)

「土のもちゐをまいらせてかかる不思議ありいわうやすずのくだ物をや、かれはけかちならずいまはうへたる国なり、此をもつてをもふに釈迦仏多宝仏十羅刹女いかでかまほらせ給はざるべき」
(土で作った餅の供養でさえ このような功徳があった。まして、あなたの供養は種々の果物である。徳勝童子と無勝童子が土の餅を供養した時、国は飢えていなかったが、今は国中が飢えている。(その大変な中で供養を送られる貴方をは)、釈迦仏・多宝仏・十羅刹女がどうしてあなたを守護しなでいるだろうか)
※以上が今回の範囲の前文となります。

続いて今回の範囲となりますが、解説は後程致しますので、まずは本文だけを読ませて頂きます。
「抑今の時・法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり、此れはいかなる時も・つねは・たいせずとわせ給えば 水のごとく信ぜさせ給へるか たうとし・たうとし。」
※ 続いて、この後の御文を紹介さて頂きます。
「まことやらむいえの内にわづらひの候なるはよも鬼神のそゐには候はじ、十らせち女の信心のぶんざいを御心みぞ候らむ、まことの鬼神ならば法華経の行者をなやましてかうべをわらんとをもふ鬼神の候べきか、又釈迦仏法華経の御そら事の候べきかとふかくをぼしめし候へ、恐恐謹言」二月廿五日  日蓮花押
(あなたの家に病人がいるというのは誠であろうか。もし、それが本当であっても、それは鬼神のしわざではなく、十羅刹女が信心の程をためされているのであろう。もし誠の鬼神であるなら(法華経の行者を悩ませば)自らの頭をやぶる事となるのを知りながら、それを行う鬼神がいるだろうか。釈迦仏・法華経に偽りなどあるはずがないと、深く信じていきなさい)
以上が「水火二信抄」の全文となります。

それでは今回の範囲を説明させていただきます。
「抑今の時・法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり」
(さて今の時、法華経を信ずる人がいる。あるいは火のように信ずる人もあり、あるいは水の流れるように信ずる人もいる。)

まず、信心の姿勢は人により様々です。
炎のように激しく燃えたり 小さく燃えたりと信仰に浮き沈みのある人もおります。また、水が流れる様に絶え間ない信仰を持つ人もいます。
「聴聞する時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり」
次に、火のように信ずる人というのは(法門を聞いた時は、燃え立つように思うけれど、時がたつにつれてそれを捨ててしまう。水のように信ずる人というのは、常に後退することなく信ずる事をいうのである。)

人は感動するような法門を聞いた時や、心揺さぶる体験を聞いた時、燃え上がる様な決意をしますが、時が経つにつれ、それは次第に薄れてしまいます。
一般的には「熱し易くて冷め易い人」といわれますが、火の信心は一時的には燃えさかる炎のように感激し、真剣に唱題して、人にも語ったりします。
しかし、時が経つと、薪が燃え尽きた焚火の様に火は消え、信心がなくなってしまう人を指します。
有名な御文に「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(御書全集P1136)とありますが、持つことの難しさを教えられています。
誰もが、広宣流布の志を持ち 常に退する心なくとの決意はありますが、社会や家庭 様々な環境で生活する私たちです。
生活に追われた時などは、どうしてもこの様な浮き沈みをもってしまうもので、「どうしても自分はダメだな」と卑下してしまう事もあります。

先生は「青春対話」で
「大事なのは一生涯、御本尊を離さない信心です。一時的に、燃えるような「火の信心」をしても、あと退転してしまったのでは、しかたがない。少しずつでもいい。淡々と川が流れ、次第に大河になり、大海に続いていくような「水の信心」が大切なのです。
(中略)御本尊を信じている限り、「罰」なんか出ません。心配しなくてもいい。日蓮大聖人は「一遍の題目にも、限りない功徳がある」と言われている。
(中略)いわんや、真剣に勤行・唱題を続けたら、どれほどすばらしいか。全部、自分のためです。義務ではなく、自分の権利です。御本尊は決して、拝んでほしいなどと言われていない。こちらから、拝ませてくださいというのが信心です。やった分だけ、自分が得をする。お題目を何遍あげなければいけない、というようなことは大聖人は、おっしゃっていない。本人の自覚の問題です。信心は一生のことなのだから、神経質にとらわれてはいけない。ともかく窮屈に考える必要はない。仏法は人間を自由にするものであって、人間を縛るものではないのです。少しずつでも、毎日することが大事です。毎日、ご飯を食べてエネルギーとなる。勉強も毎日、積み重ねることによって力となる。「毎日の生活が即人生」となる。だから「毎日の生活即向上」でなければならない。」(池田大作全集第64巻)と話されています。
時には自分を叱咤激励する事も必要ですが、「仏法は人間を自由にするものであって、人間を縛るものではない」とおっしゃられる様に、行なった分だけプラスに働くのが、この仏法の道理です。
1日1日のわずかな前進でも、それが明日へのエネルギーとなり成長へつながっていくのではないでしょうか。

「此れはいかなる時も・つねは・たいせずとわせ給えば水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし」
続いて、あなたは、(いかなる時も常に退することなく訪ねられるのであるから、水のながれるように信じておられるのであろう。貴いことである。貴いことである。)

身延にいらっしゃる大聖人のもとへ供養の品々を届け、弛むことのない信仰を貫かれていた事がうかがえます。
純粋に大聖人を求めた持妙尼に対して「水のごとき信心」 誠に「尊い」ことであると称えられています。

先生は「青年部代表者会議」のスピーチで
「私は明年で入信四十年を迎える。その間、実に多くの人生を見てきた。その体験の上から、一つの結論として確言できることがある。それは、人柄のよい″真面目″な人格の人こそが、結局、最後に人生の勝利者となり、幸福者となっているという事実である。平凡といえば、これ以上、平凡な原理もない。しかし、ここに最も重要にして銘記すべき一つの基準がある。どこの世界にあっても、真面目で真剣でなければ長続きしない。これが道理である。いわんや信仰の世界においては、心の奥底に誠実な真面目さと、謙虚な実直さがなければ、生涯の信心を全うできるものではない。また「信心」といってもさまざまな信心の姿がある。″火の信心″もあれば″水の信心″もある。格好のみの偽りの信心もある。見た目の華やかさや、一時の活躍の姿だけでは、分からない。ゆえに極論すれば、信心をぬきにしても、一個の人格として、真面目な人であるかどうか――。そこに心から信頼し、安心して後事を託せる人物か否かの分岐点がある。心根が真面目であり、その上に強情な信心が備わっていることが大切なのである。」(1986.12.27 池田大作全集第68巻)
と信仰者の姿勢を教えて下さいました。

この上から、日々真面目に生きようとする姿勢そのものが、水の信心と言えるのではないでしょうか。
この「水の如き信心」を貫く要諦として、先生は「3・16記念代表者会議」の中で、この「水火二信抄」を通されて日亨上人の話を紹介されています。
「此等これらの火の信心者に対しては、一刻(いっとき)の油断も出来ぬ。火吹竹を以もって薪を吹き付け、マッチを摺って瓦斯(ガス)に点火する事を怠ってはならぬ様に、一生涯を通して吾と自ら信心を策励(むち打ち励ますこと)し、又他人からも勧誘してもらはねば、何日(いつ)となく退転するものである。 此に反して、常恒不断(じょうごうふだん)の(常に変わらない)信仰は、消極的で極々 微温の者(なまぬるい者)に多い。不退の方は結構であるが、微温(なまぬる)では仕方がない。消極では困りものである。自身だけは謗法もせず、迷ひも 怠りも為せぬ積(つもり)であらうが、消極の信心、微温の信仰では化他力が少ない。白熾熱(はくしねつ・白い盛んな熱)にして始めて燃焼の力用が強い。熱心なればこそ他人を感化するの効用(はたらき)がある」と。
日亨上人は、火のような信心はあぶなっかしいが、かといって、消極的な信心では、化他の働きが弱く、とうてい広布を推進することはできないと指摘しておられる。 さらに「欲を云いへば、火の信仰を水の信心に続かせたい。即ち熱湯ねっとうの信仰と云ふべきであらうか」
(中略)
燃え上がる信心の情熱を、水の流れるように持続する「熱湯の信心」こそ理想的な姿である、とされている。また、なまぬるく消極的な、惰性の信心では、広宣流布などできるはずがない、とも強調されている。(1992.3.15)
このお話にあるように、「吾と自ら信心を策励(さくれい・むち打ち励ます)し、又他人からも勧誘してもらはねば、何日(いつ)となく退転するものである。」と、不断なき水の信心を行うには、常に決意を新たにして、同志と共に語り励ましあうことが大切です。 組織では、悩みをかかえ相談したいと思っても、「啓蒙がんばろう」「Fがんばろう」と、返ってくる言葉が見えているため、相談しても意味がないという声が何度も聞きました。
たとえ相談しても、本部利益の運動論に転換されていく事に「嫌気がさす」と話されていた方もいました。
信仰は、ひとり一人が目の前の問題を乗り越え、幸福になるためにあります。
この自活は、自立をサポートするグループではありますが、個々のつながりにおいて、自身の壁や悩みを打ち明け、共に励ましあえる同志の集いでありたいと考えています。
僕自身も広宣流布への熱き思いを絶やすことのない様に、日々決意を新たにして頑張ってまいります。
以上で御書講義を終わります。

御書講義

御書研鑽しよう会

創価の森

6月度座談会御書履歴

座談会御書 「辨殿尼御前御返事」2000年(平成12年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(法華経兵法事)」2001年(平成13年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(梵音声御書)」2002年(平成14年)
座談会御書 「法華初心成仏抄」2003年(平成15年)
座談会御書 「呵責謗法滅罪抄」2004年(平成16年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(法華経兵法事)」2005年(平成17年)
座談会御書 「富木尼御前御返事(弓箭御書)」2006年(平成18年)
座談会御書 「辨殿尼御前御書」2007年(平成19年)
座談会御書 「立正安国論」2008年(平成20年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(法華経兵法事)」2009年(平成21年)
座談会御書 「上野殿御返事(竜門御書)」2010年(平成22年)
座談会御書 「法華経題目抄」2011年(平成23年)
座談会御書 「祈祷抄」2012年(平成24年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(法華経兵法事)」2013年(平成25年)
座談会御書 「妙心尼御前御返事」2014年(平成26年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(不可惜所領事)」2015年(平成27年)
座談会御書 「祈祷抄」2016年(平成28年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事(法華経兵法事)」2017年(平成29年)
座談会御書 「単衣抄」2018年(平成30年)
座談会御書 「呵責謗法滅罪抄」2019年(平成31年)
座談会御書 「曾谷殿御返事」2020年(令和02年)
座談会御書 「祈祷抄」2021年(令和03年)
座談会御書 「四条金吾殿御返事」2022年(令和04年)

6月の広布史
――初代会長牧口先生 誕生日――
6月6日

■小説・人間革命
第1巻 黎明

■小説 新人間革命
第18巻 師子吼・師恩

■小説 新人間革命
第25巻

■池田大作全集
牧口先生生誕記念協議会2005年6月6日

■広布と人生を語る
初代会長牧口常三郎先生誕生日」記念勤行会1986年6月6日

――学生部結成記念日――
6月30日

■小説・人間革命
第11巻 波瀾・夕張

■小説 新人間革命
第28巻 広宣譜

前の記事

【投書】聞き流す力