【投書】教学要綱への疑問に答えられぬ幹部たち

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投書者:愛知大学 大学会3期 近藤大治

私が、「教学要綱」を手にし、読み始めて直ぐに、池田先生監修となっているが、先生の序文が無い、何か変だと思うようになっていたところ、須田晴夫元副教学部長が、原田会長への上申書を提出された記事を目にしました。池田先生と法華経の智慧を編まれた方の教学要綱への指摘は、充分に納得出来得ました。さらに、御自身の著作をネットに紹介されたのを読ませていただき、これは大変な事態だと、不遜な弟子ながら憂慮しました。

そこで、地元の総合長に「教学要綱」の質問をしに文化会館に出向き、対話をしたところ、総合長は、「『教学要綱』は解り易く書かれていて、外部の人も理解し易いと思いますよ。」と述べられた。外部の人も解り易い?甚深なる仏法を、いとも簡単に解ると仰った。この総合長の教学力を疑い、「それでは総合長に聞きますが、六種の教主釈尊を御存じですよね。」と聞いてみた。すると、「知らない」と返事。

更に、「竜の口の法難では、大聖人は何を顕されたんですか?その時、上行菩薩の使命を果たす立場に立たれたんですか?大聖人は、外用の上行の迹を開いて、御内証の境地たる久遠元初の自受用報身としての本地を顕されたのではないでしょうか?」と質問するも返事なしで、黙りです。情けなくなり、「総合長が六種の教主釈尊や大聖人の本地をも知らないのは、恥ずかしいですよ。基礎教学をしっかり勉強してください。」と言わせていただきました。その程度の教学力ですから、教学要綱は解りやすいと述べたのを理解出来ました。

これでは、話にならないと思い、学生部からの大先輩で大変に御世話になった中部総主事に、「教学要綱」への質問状を提出し、御教示を願いましたが、体調を崩されておられ叶いませんでしたが、電話での対応をして頂きました。

中部総主事への質問(要旨)

①教学要綱では、日蓮大聖人が、32歳の時の清澄寺において、南無妙法蓮華経と唱えられたことについて、「法華経の肝心たる南無妙法蓮華経を根本の教えとする立場」(教学要綱)を取られたからでであるとされています。従来の創価学会では清澄寺の修行中の16歳頃に南無妙法蓮華経を我が生命と覚知をされたとされていますが、どちらが正しいのでしょうか?

②教学要綱には、「竜の口の法難、佐渡流罪の以前と以後において、大聖人の立場が明確に転換している事が示されている。(中略)それでは、大聖人は新たにどのような立場に立たれたのだろうか。それは釈尊から滅後悪世の弘通を託された地涌の菩薩、なかんずくその筆頭である上行菩薩としての役割を果たす立場である。」と書かれています。しかし池田先生は、新人間革命第26巻「勇将」(P214)で、「竜の口の法難は、命に及ぶ大法難であった。大聖人は『日蓮といゐし者は去年9月12日子丑の時に頸はねられぬ』と綴られている。日蓮というものは、去年(文永8年)の9月12日の子丑の時(夜半)に頸をはねられた、とは、何を示しているのか。これは、凡夫の肉身は竜の口において断ち切られ、末法の御本仏としての御境涯を顕されたとの意味だ。つまり発迹顕本である。」と述べられております。教学要綱では発迹顕本以後の大聖人は「上行菩薩としての役割を果たす立場」へ転換したと述べられていますが、池田先生はご指導の中で一度でもこのように述べられたことはありますでしょうか。私は絶対にないと思います。池田先生は一貫して発迹顕本後の大聖人は本地久遠元初自受用身、末法の御本仏としての境地を顕されたとご指導くださっています。総主事の御教示を御願い致します。

総主事への私の質問状は、池田先生の御書講義や日蓮大聖人の御書を書き記した内容です。ご体調の悪い中での電話でしたが、総主事は私の意見について、「間違いだ」とは仰られませんでした。ならば今度は、中部長に御教示をお願いしようと質問状を提出。忙しい方故に、時間の調整がなかなか付かず、対話が実現しません。そして再三再四の質問状を提出しました。初めのうちは組織を通じて連絡を頂きましたが、それ以降は無視されています。所謂、対話拒否です。中部本部へも再三に渡り電話をしましたが、「今外出中です。今会議中です。」と、一向に埒があきません。最後の電話で、対応された方に、「人間対話を標榜する創価学会が対話を拒否とは、人間対話は嘘なんですか。また、対話をすれば負けてしまい、教学要綱が邪義となってしまうと思っていると理解して宜しいでしょうか。さらに、対話を避けられる中部長は、臆病者だと言わざるを得ない。そして、この様に対話を拒否し続けるならば、中部長は、教学要綱は間違っていると思っていると理解をさせて頂きます。この事を、地元及び私の後輩並びに全国の同志に伝えます。以上のことをお伝えください。」と、対応された方に依頼しました。

中部長への質問状の内容(要旨)

中部長に置かれましては、ご健勝のことと存じお喜び申し上げます。

堅塁中部の広宣流布への死身弘法の間断なき戦い、最大に敬意を表させていただきます。

御多忙を極める中、まことに恐縮では御座いますが、学会教学の最大事の事で御座います。故に中部長に、以下の質問に対する御教示を戴けます様、宜しくお願い致します。

教学要綱は、2023年11月18日に発行されました。根本の教義の解釈を変更、つまり信仰の基盤となる教義の捉え方を変えたのですから、組織を通じての教学要綱の勉強会もしくは、学習会を開くことは、会員に取り重要なことで、絶対に必要不可欠と考えますが、如何で御座いましょうか。

さて、以下ご教示願います。

1・日蓮大聖人が、清澄寺持仏堂南面に於て、諸宗の邪義を破し、南無妙法蓮華経によってのみ一切衆生が救われると説かれたことについて。教学要綱(以下「要綱」とする)では「日蓮大聖人は法華経の肝心である南無妙法蓮華経を根本の教えとする立場を宣言された(立宗宣言)」と述べている。

1について

「~とする立場」などという表現は、末法の御本仏である大聖人ご自身の絶対の確信を表現として全くふさわしくありません。日蓮大聖人は御内証に「南無妙法蓮華経如来の御本仏」を覚知されておられます。御自身の身が危うくなることは十二分に、御承知の上での宣言であります。そして、立宗宣言の文字を( )で表現するのは、何と自信のない表現でしょうか。

従来の創価学会教義では、大聖人が「南無妙法蓮華経」を覚知したのは、清澄寺で修行中の16歳頃とされています。

清澄寺大衆中(全p893新p1206)には、「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりしことありありき」「日本第一の智者となし給えと申せし事を不便とや思しめしけん、明星のごとくなる大宝珠を給わって右の袖にうけとり候いし故に、一切経を見候いしかば、八宗ならびに一切経の勝劣、ほぼこれを知りぬ」と説かれ、また、善無畏三蔵抄(全p808新p1192)には、「虚空蔵菩薩に願を立てていわく日本第一の智者とならせ給えと云々。虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星のごとくなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、そのしるしにや日本国の八宗ならびに禅宗・念仏宗等の大綱ほぼ伺い知りぬ」と説かれています。

また、大聖人34歳の一生成仏抄(全p383新p316)には、「衆生本有の妙理とは、妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱えたてまつれば衆生本有の妙理を感ずるにてあるなり」「ただし、妙法蓮華経と唱え持つというとも、もし己心の外に法ありと思わば、全く妙法にあらず、麤法なり、麤法は今経にあらず、今経にあらざれば、方便なり、権門なり。方便・権門の教えならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多少曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざるゆえに、一生成仏叶いがたし。故に、妙法と唱え蓮華と読まん時は、我が一念を指して妙法蓮華経と名づくると深く信心を発すべきなり。都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が己身の外に有りとはゆめゆめ思うべからず」と説かれており、池田先生も衆生本有の妙理の根本法とは南無妙法蓮華経に他ならないことを明確に御指南されています。

さらには、寂日房御書(全p903)には「日蓮となのること自解仏乗なりとも云いつべし」とあり、日蓮大聖人は文底下種の自解仏乗であります。

2・要綱では、日蓮大聖人は、久遠実成の仏 釈尊からの附託をされた地涌の菩薩なかんずくその筆頭である上行菩薩としての役割を果たす立場であるとし、大聖人は御自身を「如来の使い」「教主釈尊の使い」として、「自身こそ上行菩薩の働きを行う者であるという自覚を持って云々」と述べています。また「男子部教学室の論考」の中で、須田晴夫元副教学部長に対し、「創価学会に於いては、釈尊も日蓮大聖人も拝む対象ではない。日蓮大聖人と釈尊に上下・勝劣の関係あるものではない」とし、更に、須田氏に対し「本仏と本尊の概念を混同している」との難癖をつけています。

2について

人法一箇の御本尊の否定ともいえる解釈です。

日蓮宗(日蓮宗僧侶庵谷行亨立正大学教授の講演引用)も、大聖人は忍難弘通をされて、南無妙法蓮華経をお広めになられて、三大秘法を顕されたが故に、末法の大導師とするして、拝む対象とはしていない。従って、本仏と本尊は別物と捉えている。創価学会の新教義は、ほぼ同じ解釈であります。

池田先生の「方便品・寿量品講義」(p21)では末法の御本仏について、「本因妙の心は、『人間の尊厳を開く実践』にあります。このことを端的に示しているのが、寿量品の『我本行菩薩道』の文です。『我』とは久遠に於いて菩薩道を実践した『凡夫の釈尊』です。我々と同じ人間です。決して人間を超えた何者でもない。『久遠』とは生命の本流であり、生命の本源に立ち返った久遠の凡夫が『本因妙の釈尊』です。この本因妙の釈尊を本尊とするのが、大聖人の仏法です。久遠における『本因妙の釈尊』は、即ち末法の御本尊・日蓮大聖人であられる。」と御指導されています。

また、百六箇抄講義で池田先生は、「大聖人は、久遠元初の自受用身即無作三身如来であります。大聖人の御内証である『南無妙法蓮華経如来』であられます。」と御指導されており、「名字童形の位、釈迦は迹なり」「我本行菩薩道なり」の御文にについては、「この御文はいうまでもなく南無妙法蓮華経如来の寿量品における『我本行菩薩道』とは、久遠元初の自受用身即無作三身如来の外用の面の振舞いであり、行動であり、示同凡夫の御姿であります。故に『迹』となります。末法に出現された久遠の本仏、日蓮大聖人は妙法を弘める立場では、上行菩薩の再誕という御姿をとられました。これ日蓮大聖人の『我本行菩薩道』であると拝されるのです。しかし、大聖人の本地はあくまでも、久遠元初の南無妙法蓮華経如来であられます。仏といっても、凡夫の振舞い、他の人間、衆生と同じ姿、行動をとられている。そこにしか、真実の仏法は存在しないからです。だからといって名字童形の姿のみを見て、本仏の大生命に躍動する南無妙法蓮華経という根源の法への開眼が無ければ、大聖人の御内証を洞察することも自身の成仏得道も永遠に不可能となるのです。」と御指導されています。

戸田先生は、「難しく言えば、法本尊即人本尊で、人法一箇のこの御本尊こそ、南無妙法蓮華経といえるのです」「この根本を間違って説いた宗教・思想は、人々を不幸にするだけなのです。ですから、ここに正法と邪教との根本的な差が生じてくる、恐ろしいことに、人間の不幸の根本的な原因は、間違ったものを正しい信ずるところにあるのです。」(人間革命第二巻P243)と御指導されています。

3・竜の口法難について

要綱では「その時、上行菩薩の使命に立ち、南無妙法蓮華経を覚知し云々」また、「上行菩薩の使命の自覚として竜の口法難以後は、大聖人の立場が明確に転換しているが示されている。それでは大聖人は新たにどのような立場に立たれたのであろうか。それは釈尊から滅後悪世の弘通を託された地涌の菩薩、なかんずくその筆頭である上行菩薩としての役割を果たす立場である。」と述べている。

3について

日蓮宗では、(日蓮宗僧侶庵谷行亨立正大学教授の講演引用)「日蓮大聖人は、釈尊から附属を受けた上行菩薩です。そして釈尊の法華経の継承者で、釈尊の真実の顕彰と実現をされた、」としています。

ここで判ることは創価学会新教義は「上行菩薩としての役割を果たす立場」として上行菩薩としていません。方や、日蓮宗(前出庵谷行亨氏講演引用)では「約尊から附属を受けた上行菩薩」として、上行菩薩の再誕としています。創価学会新教義は、日蓮大聖人を明確には上行菩薩としない表現をして、その中途半端で曖昧な立場の日蓮大聖人に御本尊を顕す権能を与えていますが、どのような解釈なのでしょうか?

池田先生は、この竜の口の法難について、「竜の口の法難は、命に及ぶ大法難であった。大聖人は『日蓮といゐし者は去年9月12日の子丑の時に頸はねられぬ』と綴られている。日蓮というものは去年(文永8年)の9月12日の子丑の時(夜半)に頸はねられた・・・とは、何を示しているのか。これは、凡夫の肉身は竜の口に於て断ち切られ、末法の御本仏としての御境涯を顕されたとの意味だ。つまり発迹顕本である。諸天は、大聖人を守護し、大宇宙を動かしたのである。それは、一切衆生を救済せんとして戦い続けて来られた大聖人が、迹の姿を開いて、その身のままで久遠元初の自受用身如来、即ち末法の御本仏の本地を顕された瞬間であった。」(新人間革命第26巻勇将P214)と述べられています。

また、池田先生の百六箇抄講義には、「日蓮大聖人は、竜の口に於いて外用上行の迹をはらって、内証の境地たる久遠元初の自受用報身としての本を顕されました。開目抄に『日蓮といゐし者は去年9月12日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて』とある通りであります。ここに記された魂魄とは、久遠元初の自受用報身という大聖人の内証の生命それ自体であることは言うまでもありません。竜の口の頸の座を通じて、凡身をなげうち、久遠元初の本地を開顕された厳粛なる事実こそ、まさに、末法の御本仏における発迹顕本と拝すべきであります。なぜ、大聖人は、外用の姿をひとまずとられたのだろうか。それは、経文に即して、どこまでも経文通りの実践をしきった姿を人々に知らせるためであられた。すなわち、実践の尊さ、強さ、偉大さを示されるためであられたのです。」と御指導されております。明らかに、創価学会新教義の「教学要綱」は、池田先生の御指南に違背をしております。

上記について、全て御教示を御願い致します。

以上です。

しかし、中部長は再三再四の質問状を無視、拒否を続けられるようです。依って、地元及び後輩並びに全国の同志に伝えます事を実行するために、自活サイトへの投稿をすることにしました。この事実は、彼ら方面幹部及び本部職員幹部を含め、教学要綱には納得していないということが明白となります。即ち、本部職員幹部は、永遠の師匠池田先生を捨て去り、「悪の組織の番人」と為り下がってしまった。

埼玉の所沢に於いて、教学要綱への質問を何度もしたにも関わらず、一切の回答もなく、自活サイトへ投稿したとのことで、宗教組織にあるまじき強権的な圧力を掛け、役職を解任し、幹部からその方が所属する組織に、その方との接触を避けるよう通達がされたという暴挙が起きたことを知り得た。大慈大悲の皆成仏の大聖人の仏法を信仰する創価学会では、既に無くなったと言っても差し支えないのではないか。

人間を救うどころではない。組織を乱すといい、正議論を訴える者を問答無用で処分する行為は、ファッショ的で仏法民衆主義を破壊する、恐ろしき組織と言わざるを得ない。全く創価三代の創価学会ではなくなってしまった。

池田先生の撰時抄講義に、「『仏になる道は此れよりほかに又もとむることなかれ』人を救うということは、自分自身の宿命転換に通ずるということであります。・・・広宣流布というものは、仏の所為であります。故に、広宣流布を推進することは、如来の所顕として、如来の事を行ずることになります。」とあります。

池田先生を、心に無く、口ばかりで「師匠、池田先生」と呼称する者は、如来では無い故に、如来の事を行じられない。もちろん、宿命転換も出来ない。池田先生は、「歴史と人生を語る」の中で、「世の中には、初心を忘れ、御世話になった人の恩を忘れる人間もいる。それどころか恩を仇で返す人間さえいる。それは、慢心を起こし、ちっぽけな自分が中心となり本来の目的を見失った姿だ。」と、御指導されております。

この様な、教義改変の一法的な通達をして、説明会や学習会をせず、異議を訴えるものを査問し、排除する行為は、現実の社会においても批判されるでありましょう。

世界平和実現への唯一の組織「創価学会」の崩落は、世の中の乱れ、即ち、国滅ぶと憂慮するが故に敢えての投稿です。

一人でも多くの同志が、池田門下生として立ち上がることと、全国の組織において、教学要綱の質問会を開催するように、要望して頂きたいと思います。この実現を、切に願っております。

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