座談会御書「兄弟抄」2025年(令和7年)4月度
〈御 書〉
御書新版 1474㌻1行目~2行目
御書全集 1083㌻11行目~12行目
〈背 景〉
『兄弟抄』は建治2年(1276年)、日蓮大聖人が55歳のときに身延で著され、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の門下である池上宗仲(兄)と宗長(弟)とその夫人たちに、送られたお手紙です。法華経を信仰していた池上宗仲(兄)が、念仏を信じていた父から勘当されます。本抄は、その事件の報告に対する激励のお手紙です。
当時の武家社会では、勘当されることは家督相続の権利を失い、武士としての地位や生活の基盤をも奪われる、
極めて厳しい処分でした。しかも兄だけが勘当されるということは、弟・宗長に対して「信仰を捨てれば家督を譲る」と暗に迫るようなものであり、彼の信心を揺さぶろうとする意図が明らかでした。つまりこの勘当は、単なる父子の対立にとどまらず、兄弟の信仰の絆を引き裂こうとする極楽寺良観らの策略でもあったのです。
〈大 意〉
本抄ではまず、法華経がすべての経典の中で最もすぐれた教えであり、それを捨てることがいかに重大な罪であるかが説かれています。そして、迫害の本質を仏法の眼で見極めることが大切であり、大聖人は、戦うべき相手父親ではなく「第六天の魔王」の働きであるとし、魔を打ち破る信心の戦いこそが肝要であると断じています。
〈本 文〉
各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがねをよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし、石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる
〈通 解〉
あなたたち(=池上兄弟)は、懸命に法華経を信じてきたので、過去世の重罪を責め出されているのです。例えば、鉄を十分に鍛え打てば内部の傷が表面に現れるのと同様である。石は焼けば灰となる。金は焼けば真金となる。
〈講 義〉
通説1
転重軽受とは何かー仏法が示す宿命転換の原理
重きを転じて軽く受<
過去世に正法を行ずる人を迫害した謗法の罪という宿業(苦難の因)
↓
未来の大苦を招き起こして、現世で少苦として受ける(功徳)
今世で正法を信受。
転重軽受とは、もともと自らが過去世において正法を行ずる人を迫害し、謗法の罪を犯したという深い宿業(苦難の因)をもつ修行者が、今世において正法を信受することによって、本来は未来に大きな苦しみとなって現れるはずだったその業報を、現世で小さな苦難として受けることができる
「転重軽受」とは、永遠の生命観に立脚した、生命に貫かれる因果の法則です。
日蓮大聖人の仏法は「本因妙の仏法」であり、過去の因も未来の果も、今この一念に集約されています。だからこそ、今この瞬間の信心によって、宿命を断ち切り、未来を切り開くことができるのです。
池田先生はこのようにおっしゃっています。
「現在の瞬間の生命のなかに、過去世のいっさいの宿習を打破し、未来永遠の幸福の因を開いていくのである。もはやその人生は過去の因果に支配される人生ではなく、未来に向かって雄大に建設していける人生なのである。そのために、大切なのは、現在の決意であり、実践である。今が宿命転換の時であるという発心が実践となってあらわれて全てを変えていくのである。」
「信心もまた、最後の最後まで貫き通すことが大事である。ここまでやったのだから、もう充分だということはない。本果妙ではなく本因妙の仏法である。結局、奥底の一念が信心から離れたときに、退転があり、堕落があるといえよう。」
通説2
鉄は打たれて強靱となり、金は焼かれて真金となる
池田先生の指導
わが生命を鍛え抜き、強く磨き上げることが、仏法の大目的です。
磨かなければ人材は光らない。鍛えなければ本物は育たない。
広宣流布のために徹底して戦う中で、過去世の宿業を転換し、わが人生を金剛不壊の宝剣のごとく、光り輝かせていくことができるのです。
(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第2巻)
信心が強盛であるがゆえに、過去世の重罪が責め出され、今世に苦難の果報として現れる。鉄が打たれて強靱になるように、信心は苦難の中でこそ鍛えられ強さを増す。また、金が焼かれて真金となるように、信心によって生命は輝きを放つ。
転重軽受・宿命転換の道においては、苦難そのものが「信心の錬磨」「石」か「金」かは生まれつきではない。妙法の信心それ自体が「金」と決意によって、わが生命は真金となって輝く。
兄弟抄に学ぶ魔の正体と信心のカ その1
※池田先生のご講義を参考に、自らの理解としてまとめたものです。
【1.世俗倫理と宗教的価値の対比】
日蓮大聖人は『兄弟抄』において、「戦うべき相手は父ではなく、第六天の魔王の働きである」と明示されました。これは、人間関係をどう円滑にするかという世俗倫理の次元を超えて、信心を妨げる根源的な存在といかに対峙するかという、宗教的価値観に立脚することの重要性を説いたものです。
【2.信心を阻む“障壁”の正体】
信心を貫こうとする行者の前には、時として、親や師など最も身近な存在の姿をとって、信仰を妨げる力が現れてきます。では、なぜそのような障壁が立ちはだかるのでしょうか。大聖人は、「第六天の魔王が法華経の行者の成仏を妨げるために、智者・国王・父母・妻子の身に入って行者を悩ます」と説かれています。つまり、妨害や苦難は、表面的には親や身近な人々の言動として現れることがあっても、その背後にある実相を仏法の眼で見れば、それは行者の成仏を阻まんとする“魔の働き”に他なりません。ゆえに、それに惑わされぬ信心を確立することが何よりも大切なのです。
兄弟抄に学ぶ魔の正体と信心の力 その2
※池田先生のご講義を参考に、自らの理解としてまとめたものです。
【3.魔性の本質ー「元品の無明」】
では、なぜ智者であっても魔王に操られてしまうのでしょうか。それは、生命自体に潜む“根源的な迷い”、すなわち「元品の無明」があるからだと仰せです。この「元品の無明」こそが、仏に等しい智慧を得た菩薩でさえ乗り越えることが困難とされる、最も深い魔性の源なのです。
【4.法性と無明は一体】
しかし、ここで極めて重要なのは、私たちの生命には、無明と並んで「元品の法性」、すなわち仏の生命も本然的に具わっているという深い教えです。無明と法性は対立するように思えますが、実はこの二つは切り離されたものではなく、一つの生命の中に共にそなわり、あらわれ方が異なるにすぎないのです。大聖人は「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」と仰せです。つまり、魔性を打ち破るものは、何よりも「信心」であると明確に示されています。
【5.心こそ大切なれーー信心の実践】
信心とは、瞬間瞬間が己心の第六天の魔王との厳しい戦いであり、これを打ち破って勝ち抜いていく営みなのです。この信心の戦いを貫いていくなかで、宿命は転じ、人間革命の大道が開かれます。そして、最後に勝利を決するのは、いかなる外の力でもありません。大聖人が仰せのように一「心こそ大切なれ」。己心を定め、信の一字を貫き通す者こそ、魔を打ち破り、仏の命を現していくことができるのです。
末法において、「法華経」をどう捉えるか
※池田先生のご講義および、須田氏の指摘を参考に、自らの理解として整理
池田先生のご講義
池田先生の『兄弟抄講義』(1976年)では、次のように述べられています。
『この文の「法華経」とは文上の法華経をいうのではなく、文底の法華経をいうのである。すなわち、末法の法華経は、五字七字の南無妙法蓮華経であり、三大秘法の大御本尊をさすのである。さて、この法華経こそ三世十方のいっさいの諸仏の師匠であり、釈尊の本師である。全宇宙の諸仏、ならびに釈尊も、ことごとく文底の法華経、三大秘法の御本尊を本師として、成仏し得たのである。』『法華経一部八巻二十八品、ことごとく南無妙法蓮華経の一法に帰着する。この一法なくば法華経は無に等しい。』
つまり、末法において弘通される法体は、あくまで三大秘法の南無妙法蓮華経であり、文上の法華経は、その三大秘法を弘通するための手段として位置づけられるものです。ゆえに、御書に「今、末法に入りぬれば、余経も法華経もせんなし。ただ、南無妙法蓮華経なるべし」とあるのです。つまり、末法においては、文上の法華経は救済力を失っており、唯一、南無妙法蓮華経が衆生を成仏へと導く根本の法であると説かれるのです。このことはまた、日蓮大聖人が釈迦仏を本尊とされたことが一切なく、門下に授与された本尊が、中央に「南無妙法蓮華経日蓮」と記された文字曼荼羅だけであったという事実からも裏づけられます。
元副教学部長須田春夫氏の指摘:
(須田氏日く)創価学会発刊の『教学要綱』(2023年)は、名目上こそ日蓮を「末法の本仏」と位置づけていますが、実際には「釈迦の使い=上行」と規定することで、釈迦を日蓮の上位に置いています。つまり、実質的には「隠れ釈迦本仏論」となっているのです。
本来、創価学会は、釈尊を根源の妙法によって成仏した「本果の仏」とし、日蓮をその成仏の因である妙法を自ら体し弘通した「本因の仏」、すなわち「人法一箇」の存在として位置づけてきました。
池田先生は、法華経の智慧で、「神力品の付属の儀式は、本果妙の教主(釈尊)から本因妙の教主(日蓮)へのバトンタッチです」と明確に述べられています。
このようになる所以は、やはり「仏教は釈迦から始まった」という歴史的事実に囚われているからでしょう。しかし仏教では、時間は円環的であり、前後の区別は本質的なものではなく、すべては無始無終の連なりの中にあると説かれているのです。
※ 須田氏の「創価学会教学要綱」の考察という本を参考
仏法と現代物理学に見る時空観の不思議なる一致
仏法の説く円環的、無始無終を前提とする時空観は、一見すると宗教的な直観のように思えるかもしれません。しかし現代物理学、特に一般相対性理論や量子力学においても、時空に対する固定的で絶対的な見方はすでに揺らぎつつあります。たとえば、アインシュタインの一般相対性理論では、時の進み方は観測者の位置や運動状態によって異なることが明らかにされました。つまり、すべての人に共通する「絶対時間」は存在しないのです。
さらに、量子力学では、出来事の順序さえも固定されず、複数の順序が重ね合わさった状態が存在しうることが知られています。この現象は「順序の量子重ね合わせ」と呼ばれ、実験的には「量子スイッチ」によって検証されています。つまり、時間の順序すら自然界の根本的なレベルでは揺らぎをもっており、私たちが経験する「時間の流れ」は、特定の状況や観測のあり方によって現れる“見え方”のひとつに過ぎないとも考えられるのです。このような現代物理学の視点は、固定的な時間観を超えて、仏教が示す「無始無終」や「前後の区別なき世界観」と深く響き合うものです。
まさに、「因果倶時・不思議の一法之れ有り」と御書にあるように、一瞬の一念の中に過去・現在・未来のすべてが含まれ、永遠の広がりをもつ。私には、この大聖人の仏法における時間観、生命観に現代物理学が不思議と歩み寄ってきているように感じられてなりません。
(須田氏日く)布教上の便宜的理由や、外部からの評価に左右されて自身の宗教の根本教義を改変することは本末転倒以外のなにものでもなく、自身の宗教的生命を損ねる自殺行為に等しい暴挙となろう。
御書講義 動画サイト
4月度座談会御書履歴
座談会御書 「兄弟抄」2000年(平成12年)
座談会御書 「聖人御難事」2001年(平成13年)
座談会御書 「顕仏未来記」2002年(平成14年)
座談会御書 「日眼女造立釈迦仏供養事」2003年(平成15年)
座談会御書 「乙御前御消息(身軽法重抄)」2004年(平成16年)
座談会御書 「崇峻天皇御書」2005年(平成17年)
座談会御書 「三三蔵祈雨事」2006年(平成18年)
座談会御書 「日眼女造立釈迦仏供養事」2007年(平成19年)
座談会御書 「寂日房御書」2008年(平成20年)
座談会御書 「報恩抄」2009年(平成21年)
座談会御書 「開目抄」2010年(平成22年)
座談会御書 「聖人御難事」2011年(平成23年)
座談会御書 「兄弟抄」2012年(平成24年)
座談会御書 「立正安国論」2013年(平成25年)
座談会御書 「諫暁八幡抄」2014年(平成26年)
座談会御書 「日眼女造立釈迦仏供養事」2015年(平成27年)
座談会御書 「兄弟抄」2016年(平成28年)
座談会御書 「立正安国論」2017年(平成29年)
座談会御書 「如説修行抄」2018年(平成30年)
座談会御書 「日眼女造立釈迦仏供養事」2019年(平成31年)
座談会御書 「上野殿御返事(刀杖難事)」2020年(令和02年)
座談会御書 「諌暁八幡抄」2021年(令和03年)
座談会御書 「四菩薩造立抄」2022年(令和04年)
座談会御書 「呵責謗法滅罪抄」2023年(令和05年)
座談会御書 「生死一大事血脈抄」2024年(令和06年)
4月の広布史
――戸田第二代会長命日――
1958年(昭和33年)4月2日
小説・人間革命
第12巻 寂光
――第三代会長辞任――
1979年(昭和54年4月24日)
桜の城
・嵐の「4.24」断じて忘るな! 学会精神を(1999年4月27日)