令和2年 4月度 座談会御書 上野殿御返事(刀杖難事)

 とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ、殿一人にかぎるべからず・信心をすすめ給いて過去の父母等をすくわせ給へ。
 日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり

(御書p1557  18行目〜p1558  2行目)

 「上野殿御返事(別名:刀杖難事)」は、弘安2年4月、南条時光21歳の時に大聖人よりいただいたお手紙です。

このお手紙は、時代背景を踏まえながら全体を通して読む方が、より大聖人のお心に触れることができるのではないでしょうか。

 文永末から建治年間にかけ活発に行われた、日興上人による富士方面への折伏により、富士郡熱原郷の天台宗寺院、竜泉寺の日秀、日弁ら住僧や在家信徒が次々と改宗し、日興上人の弟子となりました。そのことに危機感を抱いた竜泉寺院主代の平左近入道行智(へいのさこんにゅうどうぎょうち)は権力者と結託し、日蓮門下へ不当な弾圧を始めました。

 お手紙が書かれた弘安2年4月には農民信徒の四郎男に対する刃傷事件が発生し、8月には同じく農民信徒の弥四郎男が殺害され、事態はいよいよ熾烈さを増し、ついには熱原農民信徒20人の捕縛、神四郎・弥五郎・弥六郎(弥次郎)3人の処刑という、一連の熱原法難を惹起するに至りました。

 時光をはじめとする富士方面の門下たちは、自分にも命に及ぶ迫害がせまっているかもしれないという不安や恐怖に苛まれていた事と思います。平和な現代に生きる私には、自分が命に及ぶ宗教弾圧を受けることなど想像もできません。しかし、740年前の草創の門下はこのような中で厳然と戦ってこられたのです。

 

 このような緊迫した時代背景の中、南条時光に送られたのがこのお手紙です。

 お手紙の冒頭、大聖人ご自身が受けた種々の難の中で、「命をすつる程の大難」(御書p1555)として、竜の口・小松原の二難をあげられ、「(末法の法華経の行者は刀杖の難に合うと記された)勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり」(御書p1557)と、大聖人こそ法華経身読の末法の法華経の行者であることを示されました。

大聖人は、忍難弘通の御生涯を通じ、「難即悟達」の姿を現実の上で顕わされ、「一人を手本として一切衆生平等」(御書p564)の通り、私たちにも同じように、妙法の力用により、いかなる苦難をも絶対に乗り越えていけるという確信を与えてくださっています。
大聖人の精神に触れるたび、私も心の底から勇気が湧き上がってきます。

さらには、小松原の法難で、大聖人を殴打した少輔房(しょうぼう)に対し、「ついには日蓮にあひて仏果をうべきか」(御書p1556)と、大聖人を迫害した人物に対してさえも、その逆縁によって成仏できると述べられています。

 皆さんはいかがでしょうか?自分が大変な時に、他人様の事まで気にかける余裕なんてなかなか持てないし、いわんや自分をいじめる相手のことをやですよね。しかし大聖人は、「人をよくな(成)すものはかたうど(方人)よりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(御書p917)と仰せです。自分にとって見方よりも敵の存在こそが自分を成長させてくれるのです。言い換えれば、信心によって、敵をも味方に変え、ついには救っていける強い自分になれるということです。
そのような信仰体験を持たれている方もたくさんいらっしゃるでしょうし、池田先生の人間外交の戦いこそ、その実証の最たるものだと思います。

 

 さて、危機に直面する時光はこのお手紙をどのような思いで拝したのでしょうか。

 どのような困難が起ころうとも、法華経と法華経の行者である私(大聖人)を信じ、身をまかせて信心に励みなさい。あなた(時光)だけが救われれば良いのではない。困難の中にあっても、身近な一人を大切にし、救っていきなさい。
 私(大聖人)は今まで一日も心の休まる時はない。なぜな一切衆生の救済のために、いかなる苦難に遭おうとも、断じてこの妙法を弘めてみせると心に決めているからである。

(座談会御書拝読部分 意訳)

 7歳で父を亡くし、16歳の時に兄を亡くしてからは、次男であった時光が家督を継ぎ、母や兄弟を守っていました。

若くして苦労する時光を、大聖人は亡き父に代わり見守ってこられたのではないでしょうか。そして更なる苦難に直面しようとしている今、21歳の時光の心中を案じながらも、「私と心を合わせて戦い、苦難に打ち勝て!」「断じて負けるな!」との厳父の愛に満ちたメッセージを送られたのだと思います。大聖人からの厳しくも慈愛に満ちた激励に、若き時光はどれほど勇気づけられたことでしょう。

 時光は、”地頭”という本来であれば権力の側につかなければならない身分でしたが、法難の渦中には迫害を受ける熱原の信徒を自邸にかくまうなど、大聖人の教えのとおりに同志を必死に守り抜きました。
大聖人はその勇姿を最大に讃えられ、時光に対し「上野賢人」(御書p1561)と贈られました。
若き弟子の勇気の戦いによって、誉高き師弟共戦の歴史を綴る事ができたのです。

 次元は異なりますが、災害や疫病が頻発し、殺伐とした世相の今日、私も大聖人や池田先生のように、”他人事”を”自分事”にとらえ、周囲を包み込めるような大境涯を目指したいと思います。

 

 ところで、熱原法難を引き起こした張本人の行智という人物ついて堀日亨上人は、「学問が有る訳でなく修行が積んでるのでも人徳が高い訳でもない、執権家を笠に被て威張り散らして居た」(熱原法難史p14)と述べられています。

日興上人の折伏により日蓮門下となった日秀などの竜泉寺住僧と院主代行智との対立は、宗派的な争いよりも、そもそも行智の「寺の財を私的流用したり、寺の境内で動物を殺生し食べたり、池に毒を入れ殺した魚を売りさばいたり」(御書p853 意訳)という目に余る悪行を日秀たちが責めたことがきっかけだったように思います。

 行智は、「己が罪科を塗り隠す為に一々に無実の誣告(ぶこく※故意に事実を偽って告げること)濫訴を為た」(熱原法難史p116)と、自らの不正を隠すために、権力を笠に着て正義の声を上げる民衆を抑圧したのです。

いつの時代も同じような人間が、同じような構図で正しい人を迫害するものです。

 今から41年前の4月。

熱原法難よりちょうど700年目の、昭和54年4月24日。忘恩の輩の謀略により師弟の絆が切り裂かれました。

策謀の嵐が吹き荒れる中、池田先生は認められました。

「殉教 嵐の讒言乃昭和五十四年四月二十四日」

意義深き4月。決意新たに、皆さんと一緒に池田先生の座右の銘である「波浪は障害にあうごとに、その堅固の度を増す」の信心を目指していきたいと思います。