「大学殿事(大学三郎御書)」をめぐって

「大学殿事(大学三郎御書)」(弘安元年)を読みますと、「日蓮大聖人は自らを取り込もうとした権力者の依頼を断っている。ここに立正安国を我が心とする者の、生き方の範がある」ということを学びます。

日蓮大聖人が「坂東第一の御てか(手書)き=能書家」と讃えたのが大学三郎能本(比企能本・ひきよしもと)。幕府に仕える儒官である大学三郎に宛てた「大学殿事(大学三郎御書)」(弘安元年)は、御書全集未収録で前欠、後欠の書ではありますが、信仰上、学ぶことが多々ある書簡だと思います。

◇は意訳部分

◇(安達泰盛からの)祈念等を仰せつけられるとは思っていませんでしたが、ご依頼を頂いたことは有り難く存じます。

⇒鎌倉幕府の有力御家人にして、北条時宗を支えた安達泰盛。彼が大学三郎を介して日蓮大聖人に異国調伏、または何かの祈念を依頼したようです。大聖人は、一旦は感謝の意を表します。

◇大学三郎殿と私とは師でもあり、弟子でもあり、檀那でもあります。日蓮のためには、「首を切られ、遠流(流罪)にでもなりましょう、身替わりになることができるなら何としてでも替わりたい」とまで訴えられた方です。

ですが、安達泰盛殿からの祈念の依頼はお受けすることはできません。

⇒文永8年の法難での竜口の首の座。

「只今なり」と涙した四条金吾のお供は誰もが知るところですが、実は大学三郎も師匠の身代わりになる覚悟で助命に動いたことがうかがわれます。ことが起きた時に、「師が切られるなら私が、師が流罪になるなら私が」と訴えた大学三郎。

時代背景が異なるとはいえ、師弟というものの何たるかに襟を正す思いとなります。坂東第一の能書家と大聖人から讃えられた彼ですが、筆遣いだけではなく、師に殉ぜんとした坂東第一の強信者でもあったと思います。

そのような大学三郎を介しての依頼ではありますが、大聖人は安達泰盛からの祈念の依頼を明確に断っています。

◇大学三郎殿は普通の人とは異なり、日蓮が御勘気(文永8年の法難・竜口)を蒙った時、我が身を捨てて味方をしてくださった方です。今回の祈念の仰せは城殿(安達泰盛・官位は秋田城介、陸奥守)からの御依頼によるものです。城殿と大学殿は、親しい間柄(知音)であるからでしょう。

お二人が親しいのは、大学殿は坂東第一の能書家であり、秋田城介殿(安達泰盛)は能筆や能書を好まれる人だからでしょう。

⇒ことが起きた時に渦中に飛び込み当事者となる人、傍観者となる人。職業、立場、肩書ではありません。大学三郎は鎌倉幕府に仕える身でしたから、竜口で殺されることが決まった一人の僧侶の肩を持った瞬間から、役職も立場も投げ打ち師弟の世界に生きる人となったのです。

ですが、この書簡の内容からすれば、安達泰盛との関係は維持されているので、文永8年以降も幕府に仕えていることがうかがわれます。

日蓮大聖人は大学三郎を立てながら、安達泰盛からの祈念の依頼を丁寧に断っています。このことは、『師匠自らが権力との妥協を排された、師匠は権力に抱えられることをよしとしなかった、師匠は権力者とのなれ合いを排した、師匠は権力を介しての謗法との同座を許さなかった』ということであり、これは今日的な意味合いも帯びてくるものだと思います。

政党を介して権力の側に立ち、神道や他宗教と同座するのみならず、その祭礼にまで参加して頭を下げる等、日蓮大聖人が見られたらいかほどか叱責されることでしょうか。

このような状態では、まさに「数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや」(立正安国論)であり、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(同)の一凶に自ら落ちていく状態だといえるでしょう。

故に、「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(種種御振舞御書)のとおりに、亡国の現証としての災害が次々に起きては止むことがない異常事態が続いているのだと思うのです。

還るべき原点は「されども此の事は叶ふまじきにて候ぞ」との権力者・謗法との同座拒否であり、「御ためにはくび(頸)もき(切)られ、遠流にもなり候へ。かわる事ならばいかでかかわらざるべき」との師の身替わりとなってでも師を守ろうとの弟子の心です。

権力のために変節を重ねていくのでは、最後の姿は法滅の妖怪というべきでしょう。

「大学殿事(大学三郎御書)」 弘安元(1278)年と推定

いのりなんどの仰せかうほ(蒙)るべしとをぼへ候はざりつるに、をほ(仰)せた(給)びて候事のかたじけなさ。かつはし(師)なり、かつは弟子なり、かつはだんな(檀那)なり。御ためにはくび(頸)もき(切)られ、遠流にもなり候へ。かわる事ならばいかでかかわらざるべき。されども此の事は叶ふまじきにて候ぞ。大がく(学)と申す人は、ふつうの人にはに(似)ず、日蓮が御かんき(勘気)の時身をすてかたうど(方人)して候ひし人なり。此の仰せは城(じょう)殿の御計らひなり。

城殿と大がく殿は知音(ちいん)にてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御てか(手書)き、城介(じょうのすけ)殿は御て(手)をこの(好)まるゝ人なり。

「大学殿事(大学三郎御書)」は、昭和定本日蓮聖人遺文では2-322・P1619、大石寺の平成校定御書では2-342・P1690、同じく平成新編御書ではP1324に掲載されています。真蹟1紙断簡が石川県羽咋市の妙成寺に伝来。山中講一郎氏は「大尼御前御返事」の一分と指摘されています(日蓮自伝考P215 )。

                       林 信男