日蓮一門の身延入山に関する一考 3
3 日蓮大聖人が山林に交わる身となった意味
日蓮大聖人が「山林に交わる」具体的な居所として「なぜ甲斐の国波木井郷身延の地を選んだのか」については、波木井実長の招請によるものであることは広く知られています。
では、大聖人にとって「山林(身延山)に交わる」ということは、どのような意味があったのでしょうか。
【 令法久住・1 】
まず挙げられるのは、鎌倉幕府より干渉されるのを避け、弟子檀越への教導の機会を確保して信仰増進不退を図り、佐渡で宣して以来の曼荼羅を図顕すると共に教理的基盤を固め、日蓮法華一門としての組織的確立を期した。即ち正法の久住に専念するため、というものがあるのではないでしょうか。
真言師らによる祈祷盛んな鎌倉にそのまま留まるならば、「立正安国論」に「其の上涅槃経に云く『若し善比丘あって法を壊ぶる者を見て置いて、呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子、真の声聞なり』」と涅槃経の文を引用した日蓮大聖人です。当然、破折を続けないわけにはいきません。
しかしながら、その結果がどうなるかはこれまでの経験からして分かりきっていることでもあります。もはや幕府に対して同じことを繰り返すのではなく、「新しい展開の時」であるというのが大聖人の考えだったのではないでしょうか。日蓮という直言する人物が身延のような深山に入れば、幕府としては眼の上のこぶが取れたようなもので、大聖人がそうであるように、幕府にとっても日蓮とは何ら関わるところがない故、後は両者それぞれの道を歩むだけになります。
入山翌年の文永12年(1275)3月10日に、下総の曾谷・大田両氏に報じた「曾谷入道殿許御書」の次の一節は基礎的資料収集の万全を期す大聖人の意が読み取れるものであり、いかに教理面の整備・充足に心を砕いていたかが理解できるものでしょう。
曾谷入道殿許御書
此の大法を弘通せしむるの法には、必ず一代の聖教を安置し、八宗の章疏を習学すべし。然れば則ち予所持の聖教多々之有りき。然りと雖も両度の御勘気、衆度の大難の時、或は一巻二巻散失し、或は一字二字脱落し、或は魚魯の謬悞、或は一部二部損朽す。若し黙止して一期を過ぐるの後には、弟子等定んで謬乱出来の基なり。爰を以て愚身老耄已前に之を糾調せんと欲す。而るに風聞の如くんば、貴辺並びに大田金吾殿の越中の御所領の内、並びに近辺の寺々に数多の聖教あり等云云。両人共に大檀那たり、所願を成ぜしめたまへ。涅槃経に云はく「内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」云云。天台大師は毛喜等を相語らひ、伝教大師は国道・弘世等を恃怙む云云。
意訳
この大法を弘通するためには、必ず一代の聖教を用意して八宗(華厳、三論、法相、倶舎、成実、律、真言、天台)の章疏(経典注釈書)を教材として学習すべきです。私が所持する聖教も多くあったのですが、伊豆・佐渡の流罪と何回もの大難の時に一巻・二巻を散失し、一字・二字が脱落したり、或いは魚と魯は字体が似ていて誤りやすいように書写の際に文字を写し間違えたり、一部・二部を破損してしまいました。もしこれらを直さずに一生過ごしてしまうならば、やがては弟子達の間で議論となって私の真意が伝わらずに誤った教義が出来する因となってしまうことでしょう。故に私が老境に入る前に経典、章疏の不足、欠落箇所等、詳細を調べ修正、整備しておきたいのです。
人から聞いたところでは、貴殿(曾谷)と大田金吾殿の越中の領地内、そして近在の寺々に数多くの聖教があるということです。曾谷殿と大田殿は共に日蓮の大檀那なのですから、私の願いを是非、かなえて頂きたいものです。
涅槃経には「内には智慧の弟子が有って甚深の義を了解し、外には清浄の檀越が有って仏法は久住する」と説示されています。天台大師は毛喜等と相語らって帰依せしめ、伝教大師は大伴国道・和気弘世等を頼り両名もまた最澄を助けたのです。
日蓮大聖人身延在山中の書簡は多く、伝来が真蹟・写本に関わらず「昭和定本日蓮聖人遺文」1・2巻の「正編」によって書状、法門書を確認すれば、入山当日の「富木殿御書」がNo144、身延最後の「上野殿御書」がNo431ですから(432の身延山御書は除く)、これら書簡だけで287の文書量であり、1・2巻全体434の七割近くとなります。
曼荼羅については周知のとおり、立正安国会による「御本尊集」収載真蹟曼荼羅No1~No123の内、No11以降のほとんどは身延期の図顕になります。その相貌座配についても、文永~建治~弘安と次第に整足していきます。