令和2年 9月度 座談会御書 三三蔵祈雨事

三三蔵祈雨事

建治元年六月 五十四歳御作
与 西山入道

夫れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひぬれば・たうれず、本より生いて候木なれども根の弱きは・たうれぬ、甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちには・たうれぬ

御書p.1468 1行目〜3行目

木を植えたときに大風が吹いても、強い支えがあれば倒れない。もとから生えていた木でも、根が弱い木は倒れてしまう。力弱くふがいない者であっても、助ける者が強ければ倒れない。少し強い者であっても独りであれば、悪い道では倒れてしまう。(意訳)

仏道修行において善知識の大切さを教えられている御文と拝されます。

そしてこのお手紙を送られる大聖人の、一人をどこまでも思い大切にしていく御心を感じます。

一人を大切にする。全ての目的はその一人である。この心が根本にあるかどうかが善知識たる要件であると拝したいと思います。

その上で少し所感を述べさせていただきます。

善知識とは仏道修行における、よき師匠、よき先輩やよき友人のことといってよいでしょう。

一般にも、真の友人関係は悪い意味での依存関係ではなく、自立した精神の人どうしの関係のなかに築かれるものと思う。主体性のない依存関係は不安定ですぐに壊れてしまう場合もある。真の友情は相手ではなく、自分の生き方によって築かれていくものであると思います。

仏法でいう善知識も、「究極の精神の自立・自由」に向かっていく、一人一人の自覚のなかにこそ育まれ、互いに相手を思い支えあっていくという関係性なのではないかと思う。

そして、そうした自分自身をつくりあげる根本こそ「師弟」であると確信します。

ここで「師弟」と「同志」の関係について、池田先生のご指導を学びたいと思います。

仏法の和合僧は二つの面から見ることができます。それは、織物の縦糸と横糸に譬えることができるでしょう。

織物を織る機では、まず縦糸を張る。そこに横糸を通して、布を織り上げていく。

縦糸に当たるのが、「師弟」です。横糸に当たるのが、「同志」です。この二つが綾なして、見事な広宣流布の錦が綴られていくのです。

ごく一部の例外を除いて、多くの織物では、縦糸は布の骨組みをなすものです。模様を描き出すのは、横糸です。

学会の組織もまた、根本の師弟の絆に支えられていればこそ、弟子の連帯の素晴らしい人間模様も描けるのです。

御書の世界 上 池田大作全集第32巻

ここで池田先生がいわれているように、師弟が根本にあってはじめて「善知識」の世界が織りなされていく。それは、どこまでも「一人を大切にする」という、師の心を自らの心としていく(縦糸)なかにこそ、善知識の世界をつくっていく(横糸)ための肝要があるとのご指導だと思います。

裏返していえば、もしも麗しい和合の世界が壊れていくとすれば、それは師弟を見失った時だろうと思います。また全員が平等に師弟の自覚をもって師の心を叫ぶことを抑えるようなものは、「善知識の世界」を壊す「悪知識」といえるのではないか。

だからこそ池田先生は、これでもかというほど、師弟の道を語られたのだと思います。一人一人の精神の自立と自由のために。

最後に、常に自分自身が善知識たらんとする不断の精神闘争を改めて決意したいと思います。