竜の口・私論

投稿者:鬼滅の言

寧ろ身命を捨てよ是くの如きの人解脱を求めずと雖も解脱自ら至る

開目抄下 御書p.233

正法を護るためには、むしろ身命を捨てよ。その人は解脱を求めなくても、解脱はおのずから至るのである(意訳)

開目抄に引用された涅槃経の文です。

御書拝読・私論の投稿時、この涅槃経の文で感じたことがあります。
以下の点です。

一 日蓮大聖人はこの涅槃経の文を身読・色読することで、ご自身の解脱、つまり仏界覚知の証しとされたのではないか。

一 大聖人が仏である。その客観的事実、その根拠となるのがこの文の身読ではないか。

一 大聖人がこの文を身読されたのが竜の口の法難であり、その身読を明かされた御書が竜口御書と開目抄ではないか。

今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ、流罪は伊東・死罪はたつのくち・相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ仏土におとるべしや

四条金吾殿御消息(竜口御書) 御書p.1,113

日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ

開目抄下 御書p.223

一 竜口御書では「命を捨てたる処なれ」と説かれ、開目抄では「頸はねられぬ」つまり「頸をはねられた」と説かれている。

「寧ろ身命を捨てよ」の文を身をもって読まれた大聖人は「是くの如きの人」であり、是くの如きの人は「解脱自ら至る」人なのである。

一 解脱を仏界の覚知と捉えるならば、日蓮大聖人はこの涅槃経の文に照らして仏であると宣言されている。

私はそう思います。