安房国清澄寺に関する一考 11

【 聖密房御書 2 】

本文

日蓮理のゆくところを不審して云く、善無畏三蔵の法華経と大日経とを理は同じく事は勝れたりと立つるは、天台大師の始めて立て給へる一念三千の理を、今大日経にとり入れて同じと自由に判ずる條、ゆるさるべしや。

例せば先に人丸がほのぼのとあかし(明石)のうらのあさぎりにしまかくれゆくふねをしぞをもうとよめるを、紀のしくばう(淑望)源のしたがう(順)なんどが判じて云く、此歌はうたの父うたの母等云云。今の人我れうたよめりと申して、ほのぼのと乃至船をしぞをもう、と一字もたがへずよみて、我が才は人丸にをとらずと申すをば、人これを用ふべしや。やまかつ(山賎)海人(あま)なんどは用ふる事もありなん。

天台大師の始めて立て給へる一念三千の法門は仏の父仏の母なるべし。百余年已後の善無畏三蔵がこの法門をぬすみとりて、大日経と法華経とは理同なるべし、理同と申すは一念三千なり、とかけるをば智慧かしこき人は用ふべしや。事勝と申すは印・真言なし、なんど申すは天竺の大日経・法華経の勝劣か、漢土の法華経・大日経の勝劣か。

不空三蔵の法華経の儀軌には法華経に印・真言をそへて訳せり。仁王経にも羅什の訳には印・真言なし。不空の訳の仁王経には印・真言これあり。此れ等の天竺の経経には無量の事あれども、月氏・漢土国をへだててとをく、ことごとくもちて来がたければ、経を略するなるべし。

意訳

日蓮として、道理に基づき不審に思うのは、善無畏三蔵の「法華経と大日経は、理は同じでも事相は大日経が勝れている」と立てるのは、天台大師がはじめて立てられた一念三千の理を、大日経に取り入れて「法華経と大日経は同じである」と善無畏が勝手に判じたことであり、許されることであろうか。

例えば、先に柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ 斉明天皇6年・660~養老4年・720)が「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれゆく船をしぞをもう」と詠んだ歌を、紀のしくばう(紀淑望・きのよしもち ?~延喜19年・919)や源のしたがう(源順・みなもとのしたごう 延喜11年・911~永観元年・983)らが判じて「この歌は歌の父、歌の母である」と誉めた。今の人が「私は歌を詠んだ」といって、「ほのぼのと~船をしぞをもう」と柿本人麻呂の歌と一字も違えずに詠んで、「我が才、人麻呂に劣ることなし」といったら、周囲の人々がこれを用いることがあるだろうか。歌のことを知らない、やまかつ(山賎・樵[きこり]や猟師などの山中生活者)や海人(あま・漁師、漁夫)らは用いることがあるかもしれない。

天台大師がはじめて立てた一念三千の法門は、仏の父・仏の母である。天台よりも100余年も後の善無畏三蔵が一念三千の法門を盗み取って、「大日経と法華経とは理は同じである。理が同じというのは一念三千のことである」と書くのを、智慧有る人が用いることがあるだろうか。「法華経と大日経では事において大日経が勝れる。それは法華経には印と真言がないからだ」等というのは、天竺(インド)の大日経と法華経の勝劣のことなのか、それとも漢土(中国)における法華経と大日経の勝劣ことなのだろうか。

不空三蔵の法華経の儀軌=成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌(じょうじゅみょうほうれんげきょうおうゆがかんちぎき)には、法華経に印と真言を添えて訳している。仁王経にも羅什の訳には印と真言はなく、不空の訳の仁王経には印と真言がある。これら天竺(インド)の経々には無量の事相があるけれども、月氏(インド・中央アジア)と漢土(中国)は遠く隔たっており、全てを持ってくることは困難だったので、漢訳の際に事相を省略したのである。