安房国清澄寺に関する一考 10

【 聖密房御書 】

清澄寺の聖密房に宛てた「聖密房御書」(文永11年[1274]5、6月頃)では、東密批判を展開しています。長文になりますが、全体を一読してみましょう。

本文

大日経をば善無畏・不空・金剛智等の義に云く 大日経の理と法華経の理とは同じ事なり。但印と真言とが法華経は劣なりと立てたり。良諝(りょうしょ)和尚・広修(こうしゅ)・維鷁(いけん)・なんど申す人は大日経は華厳経・法華経・涅槃経等には及ばず、但方等部の経なるべし。日本の弘法大師云く、法華経は猶華厳経等に劣れり。まして大日経には及ぶべからず等云云。又云く、法華経は釈迦の説、大日経は大日如来の説、教主既にことなり。又釈迦如来は大日如来のお使いとして顕教をとき給ふ。これは密教の初門なるべし。或は云く、法華経の肝心たる寿量品の仏は顕教の中にしては仏なれども、密教に対すれば具縛の凡夫なりと云云。

日蓮勘へて云く 大日経は新訳の経、唐の玄宗皇帝の御時、開元四年に天竺の善無畏三蔵もて来る。法華経は旧訳の経、後秦の御宇に羅什三蔵もて来る。其の中間三百余年なり。法華経互りて後、百余年を経て天台智者大師、教門には五時四教を立てて、上五百余年の学者の教相をやぶり、観門には一念三千の法門をさとりて、始めて法華経の理を得たり。天台大師已前の三論宗、已後の法相宗には八界を立て十界を論ぜず。一念三千の法門をば立つべきやうなし。華厳宗は天台已前には南北の諸師、華厳経は法華経に勝れたりとは申しけれども、華厳宗の名は候はず。唐の代に高宗の后(きさき)則天皇后と申す人の御時、法蔵法師・澄観なんど申す人、華厳宗の名を立てたり。此宗は教相に五教を立て、観門には十玄六相なんど申す法門なり。をびただしきやうにみへたりしかども、澄観は天台をは(破)するやうにて、なを天台の一念三千の法門をかり(借)とりて、我が経の心如工画師の文の心とす。これは華厳宗は天台に落ちたりというべきか。又一念三千の法門を盗みとりたりというべきか。澄観は持戒の人、大小の戒を一塵もやぶらざれども、一念三千の法門をばぬすみとれり。よくよく口伝あるべし。

真言宗の名は天竺にありやいな(否)や。大なる不審なるべし。但真言経にてありけるを、善無畏等の宗の名を漢土にして付けたりけるか。よくよくしるべし。就中、善無畏等、法華経と大日経との勝劣をはん(判)ずるに、理同事勝の釈をばつくりて、一念三千の理は法華経・大日経これ同じなんどいへども、印と真言とが法華経には無ければ事法は大日経に劣れり。事相かけぬれば事理倶密もなしと存ぜり。今日本国及び諸宗の学者等、並びにこと(殊)に用ふべからざる天台宗、共にこの義をゆるせり。例せば諸宗の人人をばそねめども、一同に弥陀の名をとなへて、自宗の本尊をすてたるがごとし。天台宗の人人は一同に真言宗に落ちたる者なり。

意訳

中国の善無畏・不空・金剛智の三三蔵は、「大日経の理と法華経の理とは同じことである。ただ、印と真言については法華経は劣である」と理同事勝の義を立てている。

中国天台・11世の広修(こうしゅ・771~843)と弟子の良諝(りょうしょ)、維鷁(いけん)は「大日経は華厳経・法華経・涅槃経等に及ばない、方等部の経である」と教示している。

日本の弘法大師・空海がいうのには、「法華経はなお、華厳経等に劣っている。ましてや、大日経には及ぶべくもない」また「法華経は釈迦の説であり、大日経は大日如来の説である。教主が既に異なっている。また釈迦如来は大日如来のお使いとして顕教を説いたのであり、これは密教の初門なのである」といい、あるいは「法華経の肝心たる寿量品の仏は顕教の中においては仏なのだが、密教に対すれば具縛の凡夫なのである」と説示している。

日蓮が考えるところは、大日経は唐代の玄奘(げんじょう 602~664)以後に訳された新訳の経であって、唐代の玄宗(げんそう)皇帝(685~762)の御時、開元四年(716)に天竺(インド)の善無畏三蔵が持ってきたものである。

法華経は玄奘以前の旧訳(くやく)の経、後秦の時代に羅什三蔵(350~409)が伝来し訳出した経典である。このように大日経と法華経には300余年の隔たりがある。法華経がインドより中国に渡った後、100余年を経て天台智者大師(智顗 538~597)が出現し、教門(教相門)では五時四教を立てて、それまでの500余年の学者の教相を破り、観門(観心門)では一念三千の法門を悟り、はじめて法華経の理を得たのである。

天台大師以前の三論宗、以後の法相宗では八界を立てて十界を論じておらず、一念三千の法門を立つ道理というものがない。華厳宗は天台以前には南三北七の諸師が、華厳経は法華経よりも勝れている、と言ってはいたが、華厳宗の名はなかった。

唐の3代皇帝・高宗(こうそう 628~683)の后(きさき)である則天皇后(そくてんこうごう=武則天 623?~705)という人の御時に、法蔵(ほうぞう 643~712)法師、澄観(ちょうかん 738~839)という人が華厳宗の名を立てたのである。この宗は教相に五教を立て、観門には十玄・六相などを立てる法門である。いかにも優れた教えのようにみえたのだが、澄観は天台を論破しているようでいて、実際は天台の一念三千の法門を借り取って、自らの経典である華厳経の「心如工画師=しんにょくえし・心は工(たくみ)なる画師(えし)の如し」の文の心としたのである。このようなことは、華厳宗は天台に落ちたというべきか、または一念三千の法門を盗みとったというべきだろうか。

澄観は持戒の人で、大乗・小乗の戒律を塵一つほども破ることはなかったのだが、天台の一念三千の法門を盗み取ったのである。これはよくよく口伝するべきことなのだ。

真言宗の名が天竺(インド)にあるかないかは、大きな疑問である。ただ真言経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経の真言三部経)であったものが、善無畏らが、宗の名を漢土(中国)に来た時に付けたのかどうか、詳しく知るべきことなのだ。特に善無畏らは法華経と大日経との勝劣を判釈するのに、理同事勝の釈を作って、「一念三千の理は法華経・大日経共に同じである」といいながら、「印と真言が法華経には無いので、事法は大日経に劣っている。事相が欠けているということは事理倶密もない」としたのである。

今、日本国の諸宗の学者らは、ことに用いてはならない天台宗が、共に理同事勝の義を許している。例えば、諸宗の人々が念仏者を嫉(そね)みながら、皆で弥陀の名号を唱えて自宗の本尊を捨てているようなものなのだ。天台宗は、一同に真言宗へと落ちてしまった人々である。