安房国清澄寺に関する一考 9

【 報恩抄送文 】

報恩抄送文 建治2年(1276)7月26日

又此文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ、詮なからん人人にきかせなばあしかりぬべく候。又設ひさなくとも、あまたになり候はばほかさま(外様)にもきこえ候なば、御ため、又このため、安穏ならず候はんか。

「報恩抄には大事中の大事である法門を書いたので、日蓮の教えを信じない人々に聞かせることはかえって悪い結果をもたらすことであろう。たとえ理解あるような人であっても、大人数となってしまえば、やはり不信の者が聞くことになってしまうだろうから、あなた方のためにも、この法門のためにも、安穏でいることができなくなってしまうだろう」と「清澄寺大衆中」等とは違い、「報恩抄」の扱いには慎重を期すように指示しています。

これについては、「送文」に「道善御房の御死去之由去る月粗承はり候」とあるように6月に師匠・道善房が死去したことを聞き、急ぎ書いた書が「報恩抄」であり、その意とするところは「御まへ(前)と義城房と二人、此御房をよみてとして、嵩かもり(森)の頂にて二三遍、又故道善御房の御はか(墓)にて一遍よませさせ給ひては、此御房にあづけさせ給ひてつねに御聴聞候へ。」と師匠への報恩のためというもの、また法兄たる浄顕房・義城房に法門理解を促すものでしたから、他の清澄寺関係者に宛てた書とは異なる扱いを期したものと思われます。

日蓮大聖人がこのような指示をした背景としては、(後に確認しますが)この時、浄顕房は清澄寺別当を務めていたと考えられるのですが、「送文」冒頭に

親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ。御心得候へ。御本尊図して進候。此法華経は仏の在世よりも仏の滅後、正法よりも像法、像法よりも末法の初には次第に怨敵強くなるべき由をだにも御心へあるならば、日本国に是より外に法華経の行者なし。これを皆人存し候ぬべし

とあることからして、別当自ら日蓮法華への帰伏を促して争論などが起こり、寺中が騒がしいものとなっていたのではないかと推察されます。

故に大聖人としては、故郷の法兄の身の上を案じ、大事の書である「報恩抄」の取り扱いの注意を促すと同時に、寺内の不信者とのトラブルを避けることを願ったのでしょう。しかし、「送文」にある「御本尊図して進候」の浄顕房が授与された紙本の曼荼羅は周囲の疑難を巻き起こしたようで、浄顕房はそのことを身延の大聖人に報告したのでしょう。

大聖人は2年後の弘安元年(1278)9月に「本尊問答抄」を著して、

問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし。

問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり

と清澄寺の仏像信仰世界に「法勝人劣的教示」、即ち曼荼羅を本尊とする教示を行います。

結局は「阿闍梨寂澄自筆納経札」に「弘安三年(1280)五月晦日 院主阿闍梨寂澄」と書かれているように、「報恩抄」から4年経たずして清澄寺の院主は東密の法脈たる寂澄になっています。この時の浄顕房・義城房の動向は不明なようです。虚空蔵菩薩像をはじめ諸仏像を拝する清澄寺の大衆には、紙本の曼荼羅は受け入れられなかったということなのでしょう。

【 善無畏三蔵抄 】

鎌倉より清澄寺の法兄たる浄顕房・義浄房に宛てた「善無畏三蔵抄」(文永7年[1270])では、善無畏三蔵と真言師をはじめ浄土・禅・南都諸宗を批判しています。

当世の高僧真言師等は其智牛馬にもおとり、螢火の光にもしかず、只、死せるものの手に弓箭をゆひつけ、ねごとするものに物をとふが如し。手に印を結び、口に真言は誦すれども、其心中には義理を弁へる事なし。結句、慢心は山の如く高く、欲心は海よりも深し。是は皆自ら経論の勝劣に迷ふより事起り、祖師の誤りをたださざるによる也。

当世の東寺等の一切の真言宗一人も此(善無畏三蔵の)御弟子に非るはなし。而るに此三蔵一時(あるとき)に頓死ありき。数多の獄卒来りて鉄繩七すぢ懸たてまつり、閻魔王宮に至る。