安房国清澄寺に関する一考 12

【 聖密房御書 3 】

本文

法華経には印・真言なけれども二乗作仏劫国名号・久遠実成と申すきぼ(規模)の事あり。大日経等には印・真言はあれども二乗作仏・久遠実成これなし。二乗作仏と印・真言とを並ぶるに天地の勝劣なり。

四十余年の経経には二乗は敗種の人と一字二字ならず無量無辺の経経に嫌はれ、法華経にはこれを破して二乗作仏を宣べたり。いづれの経経にか印・真言を嫌ふことばあるや。その言なければ又大日経にもその名を嫌はず但印・真言をとけり。

印と申すは手の用なり。手仏にならずば手の印、仏になるべしや。真言と申すは口の用なり。口仏にならずば口の真言仏になるべしや。二乗の三業は法華経に値ひたてまつらずば、無量劫、千二百余尊の印・真言を行ずとも仏になるべからず。勝れたる二乗作仏の事法をばとかずと申して、劣れる印・真言をとける事法をば勝れたりと申すは、理によれば盗人なり、事によれば劣謂勝見の外道なり。此失によりて閻魔の責めをばかほりし人なり。後にくい(悔)かへして、天台大師を仰ひで法華にうつりて、悪道をば脱れしなり。

久遠実成なんどは大日経にはをもひもよらず。久遠実成は一切の仏の本地、譬へば大海は久遠実成、魚鳥は千二百余尊なり。久遠実成なくば千二百余尊はうきくさの根なきがごとし、夜の露の日輪の出でざる程なるべし。天台宗の人人この事を弁へずして、真言師にたぼらかされたり。真言師は又自宗の誤りをしらず、いたづらに悪道の邪念をつみをく。

空海和尚は此理を弁へざる上華厳宗のすでにやぶられし邪義を借りとりて、法華経は猶華厳経にをとれりと僻見せり。亀毛(きもう)の長短、兎角(とかく)の有無、亀の甲には毛なし、なんぞ長短をあらそい、兎の頭には角なし、なんの有無を論ぜん。理同と申す人いまだ閻魔のせめを脱れず。大日経に劣る、華厳経に猶劣る、と申す人謗法を脱るべしや。人はかはれども其謗法の義同じかるべし。

弘法の第一の御弟子かきのもと(柿本)き(紀)の僧正紺青鬼(こんじゃうき)となりし、これをもてしるべし。空海悔改なくば悪道疑ふべしともをぼへず。其流をうけたる人人又いかん。

意訳

法華経には印と真言はないけれども、声聞・縁覚の二乗が成仏する「二乗作仏」と、成仏する時の劫(こう)の名と長さである劫、仏国土の名である国、仏名たる名号の「劫国名号」と、如来寿量品第十六で釈迦仏が久遠の昔・五百塵点劫という過去において既に仏であったと説かれた「久遠実成」という、他にはない勝れた教えがある。対して大日経等には印と真言はあるが、「二乗作仏」や「久遠実成」はない。「二乗作仏」と印・真言とを並べたら、天地ほどの勝劣である。

四十余年の経々には「二乗は腐った草木の種子(敗種)のようなもので成仏はできない」と一字、二字のみならず無量無辺の経々に嫌われている。法華経では二乗永不成仏を破って「二乗作仏」を説いている。どこの経々に印と真言を嫌った言葉があるだろうか。その言葉がないのであれば、大日経も印と真言を嫌わずに説いているだけのことである。

印というのは手で結ぶもの、手の働きである。手が仏にならない限り、手で結ぶ印で成仏できるのだろうか。真言というのは口で唱えるもの、口の働きである。口が仏にならない限り、口で唱える真言で成仏できるのだろうか。二乗の身・口・意の三業も、法華経にあわなければ、無量劫にわたって、真言の本尊である千二百余尊(胎蔵界・五百余尊、金剛界・七百余尊)の印と真言を行じても仏になることはできないのである。勝れている「二乗作仏」の事法を説かないといって、劣れる印と真言を説く事法を勝れている、というのは、理によれば盗人であり、事相によれば「劣謂勝見(れついしょうけん)=劣を勝と謂う見、劣っているのに勝れているとする考え」の外道である。善無畏三蔵はこの失(とが)によって、閻魔王から責められた人なのである。後に悔いて、天台大師を師と仰いで法華経を信じ、悪道を免れている。

「久遠実成」というのは、大日経には思いもよらないものである。「久遠実成」は一切の仏の本地である。例えば大海は久遠実成であり、魚鳥は千二百余尊である。久遠実成がなければ、千二百余尊は浮き草の根がないようなものであり、太陽が出る前の夜露のようなものである。天台宗の人々はこのことをわきまえずに、真言師に誑かされてしまった。真言師もまた自宗の誤りを知らずに、いたずらに悪道に堕ちる邪念を積んでいる。

空海和尚はこの理をわきまえなかった上に、既に破られている華厳宗の邪義を借り取って「法華経は華厳経よりもなお劣るのである」との僻見を立てている。「亀毛の長短、兎角の有無」を論ずるようなものである。亀の甲には毛はないのに、どうしてその長いか短いかを争い、兎の頭には角などないのに、どうしてその有無を論じるのだろうか。「理同」といった善無畏ですら、閻魔の責めを免れなかった。「大日経より華厳経は劣る、華厳経より法華経はなお劣る」という人が謗法罪から逃れることができるであろうか。人は善無畏から空海に変わっても、その謗法の義は同じである。

弘法の第一の弟子であるかきのもときの僧正(柿本紀の僧正=真済・しんぜい 延暦19年・800~貞観2年・860)が紺青鬼(こんじょうき)となった(「捨遺往生伝」等)ことからも、空海の謗法を知るべきなのだ。空海は改悔しなければ、悪道に堕ちていることは疑いなきことである。その流れを受けた人々もまた同じことであろう。