板本尊の真相に最初に気付いたのは堀上人
大石寺所蔵の通称「戒壇の大御本尊」と呼ばれる板御本尊が、実は、日蓮大聖人が日禅に授与した御本尊の写しであったことは、既に、金原明彦著の「日蓮と本尊伝承」に実証的に論証されている。この解明のきっかけとなったのは、「河辺メモ」と呼ばれる大石寺僧河辺慈篤のメモ書きで、それは大石寺六十七代管首日顕が教学部長時代に語った内容を記したものだ。
河辺メモ
「S53・2・7、A面談・帝国H
- 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々の方法の筆跡判定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。
(中略)
- 日禅授与の本尊は初め北山にあったが北山の
誰かが売りに出し、それを応師が何処で発見して
購入したもの。(弘安三年の御本尊)」
このメモによれば、問題の発見者は阿部であるかのように思われるが、しかし、実は最初にこの問題に気付き言及していたのは、かの碩学堀日亨上人だった。
堀上人の生前、従事として仕えていた大橋慈譲(相模原正継寺初代住職)が、堀上人の言動を記録した、「亨師談聴聞記」にそのことが記されている。
亨師談聴聞記
昭和五十四年十二月三十日(日)。
※今月二十四日、岡山・妙霑寺一泊、二十五日、徳島敬台寺住職・河辺慈篤師(弟弟子)の所へ一泊する。翌二十六日午前中、河辺氏、顕師猊下になってから、小生の「亨師聴聞記」と顕師・観妙院早瀬日慈師の云われた事の二つを盾に取り、「宗門は淫祠邪教だ」と云って虫の居処が悪く、顕師と対決しようとして、敬台寺の全部の中、半分程を荷物を娘敬子のアパートへ運び、争った。顕師も観妙院もそれに困り、慰留しようとして、顕師も観妙院も敬台寺に来たが、河辺はガンとして意を翻えさず、ヤッと大願寺・早瀬義寛坊が来て解決した。
顕師・観妙院の件とは、次の如くあるという。観妙院(早瀬道応房・日慈・池袋法道院住職)が生前、堀上人から聞いた事として、次の如くある。それを顕師も亦聞き、顕師は河辺師に話したのである。
「本門戒壇の御本尊は、日禅授与の御本尊と全く筆法も字配りも、全て同じである」。(日禅授与の本尊は、現在、法道院が応師の時代かに手に入れておる。然して今は観妙院の手に依って本山へ納められた)。そじて、「授与書きと本尊部分とは、筆蹟は違って居る」。そこで堀上人は、生前にそれを指摘され、「本門戒壇の御本尊は偽作されたことは間違いない」と云われた。
河辺師、戒壇の本尊・日禅授与の本尊、共に写真に撮ってあり、対照してみせて呉れた。全く同じであるのにびっくりする。
顕師御登座されて、河辺師に話される。観妙院も写真を呉れて、偽作だと云われる。そこで河辺師は、現猊下も旧総監も、戒壇の御本尊を偽作だと云ったとしたら、これは大問題になる。河辺師はこれを週刊誌に発表し、キャンペーンをすると息巻いたのである。
河辺師は、今は納まり、顕師・観妙院に心服しており、河辺師は、顕師御登座中は、信義を守る意義から、敬台寺を動かぬと決心したと語らる。
そこで、小生、亨師より戒壇の御本尊に就いて聞いた事を思い出した。亨師曰く、
「戒壇の御本尊を何時、彫刻したかと云うことは、宗門の古文書に書かれてあった事を記憶しておる。其の後、さて何処かにある筈だがと、探して居るが、見あたらぬ」。(亨師は生前中、終にそれを探すことは出来なかった。何時か、後世の人が発見することがあるかも知れぬ。譲は思う)。
つまり、戒壇の板本尊が、弘安三年の日禅授与の御本尊の写しであることに最初に気付いたのは堀日亨師で、当時、日禅授与御本尊を所蔵していた法道院の早瀬日慈がその事を堀上人から聞いており、早瀬はそれを阿部に話し、更に阿部が河辺に話したのである。
「河辺メモ」によれば、昭和53年2月に阿部から河辺が聞き、阿部が法主に登座すると、
この話を盾にとって、阿部を脅したのであろう。当時は早瀬日慈や息子の義寛(現法主)に説得され一時矛を収めたようである。
このことを、当時宗内のどこまでが知っていたか、定かではないが、阿部や早瀬が法主になったことに少なからず影響していたかも知れない。
ともあれ、日顕ばかりではなく、現法主早瀬日如もまた、戒壇板本尊の真相を知っているという事実に、大石寺の宗徒並びに法華講員たちは何を思うのだろう。
堀上人が、「戒壇の御本尊を何時、彫刻したかと云うことは、宗門の古文書に書かれてあった」というのであるから、是非、宗門人にはその発見に努めて欲しいものだ。