『日蓮一門は生涯が、第六天の魔王・天魔との闘いである』ということについて

日蓮大聖人の身が佐渡にあった時に著された『辧殿尼御前御書』(文永10年[1273]9月19日)からは、「第六天の魔王(天子魔・天魔、以下天魔)という見えざるものがかたちとなり働くこと。そこで初めて我が信仰が試されること。妙法を弘めるということは第六天の魔王(天魔)との闘いであること」を学びます。

貞当は十二年にやぶれぬ、将門は八年にかたふきぬ。第六天の魔王十軍のいくさ(戦)をを(起)こして、法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土をと(取)られじうば(奪)はんとあらそ(争)う。日蓮其の身にあひあたりて大兵をを(起)こして二十余年なり。日蓮一度もしりぞ(退)く心なし。しかりといえども、弟子等檀那等の中に臆病のもの大体・或はを(堕)ち或は退転の心あり。~一部引用~

意訳

安倍貞任は、永承6年(1051)から康平6年(1062)にかけての12年にわたる「前九年の役」で奮戦しましたが、厨川の戦いで敗れ討ち取られました。平将門は、承平5年(935)に常陸の国で戦を起こし、関東一円を治めて天慶2年(939)には新皇まで称しましたが、天慶3年(940)に幸島郡の北山で戦に敗れました。

第六天の魔王(天魔)は欲、憂愁、飢渇、渇愛、睡眠、怖畏、疑悔、瞋恚、利養虚称、自高蔑人(大智度論巻15)の十種類の魔軍を起こして、法華経の行者と生死流転の苦しみの海中で戦い、聖人と凡夫が同居する娑婆世界を取られまい、奪おうとして相争っています。日蓮は第六天の魔王(天魔)と戦う身として大兵を起こして二十余年になります。日蓮には一度も退く心はありません。しかしながら、弟子檀那の中で臆病の者は大体、退転し、あるいは退転の心があるのです。

佐渡に至る大聖人の弘教を振り返ってみましょう。

安房国・清澄寺での立教、鎌倉での妙法弘通・法華勧奨、天災地変・疫病・飢饉の惨状からの「立正安国論」による国主諫暁、鎌倉草庵への暴徒の襲撃、伊豆への流罪、安房国・東条松原での襲撃と負傷・弟子の殉教、蒙古の国書到来による世上の騒然、極楽寺良観との対決、鎌倉草庵襲撃に始まり竜口で斬首されかかる文永8年の法難、弾圧による鎌倉日蓮一門の壊滅、佐渡への配流、極寒の中で著された「開目抄」、続く「観心本尊抄」の執筆と佐渡始顕本尊の図顕。

「開目抄」で「少少の難はかずしらず大事の難四度なり」と記された難を忍び妙法弘通に身命を捧げたその心には、「第六天の魔王(天魔)との闘い」というものがあったのです。

安房、下総、伊豆、鎌倉、そして佐渡や身延といずこに身を置けども、大聖人の胸中では「生死海の海中にして同居穢土をと(取)られじうば(奪)はんとあらそ(争)う」第六天の魔王(天魔)との闘いですから、弟子檀越に書簡を送る、曼荼羅を顕す時も、そこには「日蓮其の身にあひあたりて大兵をを(起)こして二十余年なり。日蓮一度もしりぞ(退)く心なし」と、第六天の魔王(天魔)を破折して無明を打ち破る意が、弟子檀越の信仰増進・不退を願う思いが込められていたのではないでしょうか。

「辧殿尼御前御書」の文中、殉教恐れずともいえる自身の思いを示された後に「弟子等檀那等の中に臆病のもの大体・或はを(堕)ち或は退転の心あり」と敢えて信仰退転の姿を記されたところに、「我が門下よ、第六天の魔王・天魔を前にして臆病になったり、退転してはいけない。断じて打ち破るのだ、との強き意思で妙法を弘めゆけ」との思いを感じます。

このように「日蓮が法門」が成る過程で、ある意味、貢献ともいえる役割を果たしたのが第六天の魔王・天魔であり、それは世俗と宗教の権威権力の側にあったことは、未来永遠に忘れてはならない史実ではないでしょうか。同時に、第六天の魔王・天魔と相対する日蓮と一門は「第六天の魔王との闘いと位置付けて信仰に励む時、人はそれまでにない力を発揮して新たなる信仰のかたちを創出することができる」と、その姿、振る舞いを以て教えているように思うのです。

妙法を弘めゆくのは、第六天の魔王・天魔との闘いであるということは、現代に生きる私たちも心したいことです。では、その第六天の魔王・天魔とは、どのような働きをして私たちの前に顕れるのか。「実体験しています」という方も多いでしょうが、機会を改めて、御書を通して再確認していきたいと思います。