【投書】疫病、宗教そして未来

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投書者:林信男

 世に起こる事象は一概に功徳、罰だと言い切れるものではなく、日蓮仏法的な思考、視点を持つ信仰者であっても、その時代の衆生の機に合わせた理解、表現をする必要があるのは自明の理でもあります。

現在、猛威を振るっている新型コロナウイルスの世界的パンデミックは、これまでの人間社会の有り様、あり方を根底から問い直すような『働き』をしており、この見えない力(ウイルス)は私達文明社会に対して、社会構造からライフスタイルに至るまで自省と価値観の再構築を迫っているように思われます。

ロックアウトにより都市に青空が戻った、街から見る星空が美しい、街中の川の流れが清らかになった、家だけでなく森や自然の中でオンライン学習をする、屋外に響く美声、心を癒すバイオリンの音色。

危機管理に人間力を発揮して人々の心に届く訴えをするリーダー、献身的に対ウイルスの現場で奮闘する名もなき人々、一方で無能をさらすリーダー、後手に回ってばかりの政府の危機対応・・・

ここにおいて、私達は『人類の危機というのは人物そのものを浮かび上がらせる作用がある』『強固に思われたかたちとシステムも実は空気のようなものであった』ということを知るのです。

 さて、過去は現在の姿にあり、未来は現在の心にあり、そこから未来の善きもの、幸い、笑顔が生まれると考えるのですが、であれば「君達は同時代をいかに生きるのか?」が、今まさに問われているのではないでしょうか。

そこで思い起こされるのは、日蓮が立教にあたって言うべきか、言わざるべきか逡巡し、至った結論 「二辺の中にはいうべし」 との言葉です。日蓮その人は、『それまでとそれ以後を劇的に変えた先達』でもあるのです。

この根本逡巡から妙法を唱え弘めて経典通りの大難を受け、天災地変、疫病、飢饉、戦乱に苦しむ人々に心を寄せて向き合い、そこに人間のこころの反作用を見抜いて敢えて総罰と指摘し、世の浮き沈みを超えて一閻浮提第一の御本尊を顕すに至ったその生涯からは、『末法万年の一切衆生成仏の法は大いなる放棄ありてこそ成ったのであり、大いなる放棄は胸中の迷いを打ち破った我が志の勝利であり、鮮明に言い切ることにより新しい信仰のかたちが明確に結実したのである』と学ぶのです。

このことは即ち、『それまでの世界からの旅立ちは一旦は全てを失うように見えるが、同時代の現実、不幸と悲惨、苦悩に向き合うところから、以前より培ったものの再生と新生が始まり、そのこころの豊かなる実りがかたち(宝珠)となることを示すもの』ではないでしょうか。

まだまだパンデミックの渦中ですが、ポストコロナの時代が語られて新世界秩序までが論じられる現在、『日蓮がごとくの道』を生きようとする私達は、

現代の大いなる放棄とは何か
いま、二辺の中にいうべきことは何か
日蓮が敢えて疫病を総罰といったその心は 
コロナ禍からの再生、新生とはどのようなことか
ポストコロナの新しい信仰のかたちとはどのようなものか
等々、じっくりと考えていきたいと思うのです。

◇「疫病が総罰とか何いってんだよ。今は鎌倉時代じゃないんだよ。みんなが辛い思いして苦しんでも頑張ってんだから、それでいいじゃない。元に戻ったら普通になるだけだよ」
という向きもありますが、お互い様の同調圧力フル回転の域で止まっていたら、日蓮が時代に向き合い考え記したことも、単なる昔話に貶めてしまうことになるでしょう。

自然災害が多発し疫病、飢饉が日常にあり、今以上に人が宗教的に生きて世の事象にも宗教的意味合いを見出だしたその思考とこころから、受け取れるメッセージは多々あるのではないでしょうか。