【投書】「空気」について考える

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投書者:ClearSky

(1) 「空気」とは何か?
「人が不幸になる」「平和が壊される」のは、悪と闘わないことによるのだと言われます。また、それは「悪を目にしても闘わない」「正義を貫く勇気がない」ということでもあると思います。更に言えば、日蓮大聖人は「悪と闘わない人間は堕地獄だ」とまで仰っています。

これらのことを「空気」という言葉から考えてみたいと思います。
先ず、この「空気」とは何でしょうか?

最近の映画には、「負けると分かっていたのに、何故愚かな戦争に突入していったのか」に触れたものがあります。それは「戦前・戦中の『空気』なるものに支配されていたからだ」とする主張に基づいているように感じます。その「空気」とは「『お国のため』に闘うことが当たり前」「日本は必ず勝つ」という意味のように思います。

この「空気」とは何かを考える上で、この「空気」を別の言葉に言換えてみたいと思います。
それは、皆がそうせざるを得ない、反論を許さない「同調圧力」と言えるかもしれません。しかも、誰も責任を取りません。つまり、「無責任」と言えます。そして、かつての大戦の時も、根拠もない、とりとめもない、何となく漂う「雰囲気」が蔓延していたように思います。
これは、学会員も良く知っている「時の流れに逆らえません」との言葉は、これらの表現に極めて合致しているように感じます。

「空気」とは、「同調圧力」「雰囲気」「無責任」の要素を持っているのだと考えます。それらの意味が融合している状態ではないでしょうか。

この掴みようのない「空気」とは、現在にも通じるものがあると感じます。例えば「SNS」です。「SNS」とは、この「空気」みたいなものかもしれません。よく考えもせず、他人に同調し、しかも無責任です。

こう考えると、創価学会の「組織」も同様なのかもしれません。
「組織には従わなければならない」「組織は正しい」「幹部は正しい」と主張する人もいますが、何故「おかしな指示に従わなければならない」のでしょうか? 問われるべきは、道理です。「なぜそうするべきなのか」「なぜそうしてはいけないのか」が大事だと思います。指示に従う前に、道理や良識を考えてみるべきです。黙って従うのではなく、一歩踏み出して本当にそうなのか考えてみれば、責任を持てるようになるのかもしれません。

このことをもう少し具体的に考えてみます。かつて、学会員は「無疑曰信(疑いなきを信と曰う)」と教えられてきました。「分からなくても、素直に従うことが大事だ」という意味で用いられてきたと思いますが、それには組織がまともである大前提が必要です。狂った組織に従えば、不幸になります。「異体同心」という言葉も同様です。考えないで用いれば、目に見えない圧力になるでしょう。

真面目な会員は「組織のため」「先生のため」「広宣流布のため」に献身しようと思っています。しかし、その純粋な気持ちを利用して、デタラメな活動に従事させるのは会員利用であり、搾取だと思います。

次に、一体、どこに責任があるのでしょうか? 誰が責任を持っているのでしょうか? どこにも責任などありません。誰も責任を取りません。これは学会が支援する公明党が大敗しても誰も責任を取ってないことから明らかです。

また、デタラメな指導をして、人が不幸になっても放置されている事例が多く確認できます。
本来、学会は指導主義でした。面倒を見てあげるのが大切なことです。しかし、今は違います。デタラメな指導の結果、不幸になっても、「プライベートなことには関わらない方が良い」だの、「自己責任」などを口にして、幹部は誰も責任を取りません。デタラメを言って働かせるだけ働かせておいて、当然実現するはずもない結果が出なくても、平気で逃げてしまいます。良心の呵責など感じないのだと思います。だから、現在の学会に、「責任」などないのだと思います。
かつて「だれが責任をとるのかを、だれも知らないときには、責任は存在しない」(J・S・ミル)と先生は指導されていました。まさにその通りの実態です。

次に、昭和54年の先生の辞任を考えます。
この時、「時の流れには逆らえません」と言った輩がいます。当時の最高幹部は「無責任」に支配されていたのではないでしょうか。「広宣流布」を考えた時、先生が会長を辞めて良い理由などあろうはずはありません。確かに起きている問題は深刻だったかもしれません。それでも、広宣流布を考えた時、また戸田先生の遺言を考えた時、会長の辞任で済まそうなどとする選択はありえないと考えます。彼らの一念には「責任」などなかったのだと思います。「師弟」もなければ、「約束」も平気で破ります。誰も師匠を守らなかった。師匠と同じ自覚に立つ弟子はいなかった。これが昭和54年問題だと思います。

それは、また、その場を支配する「雰囲気」だったのでしょう。誰一人として「その考えは間違っている」と言えなかったのだと思いますが、「無責任」の極みです。先生は2005年頃から、昭和54年のことに度々触れられ、これらのことを教えてこられたように思います(全集未収録指導を参照のこと)。

更に、戦時中の学会の様子を考えてみます。
牧口先生は「今こそ、国家諌暁の秋である」「何を恐れるのかしらん」と軍部政府に恐れ慄く宗門を諫めました。国民も宗門も戦争と言う「空気」に飲まれていたのかもしれません。牧口先生・戸田先生以外に「軍部は間違っている」と言う人はほとんどいませんでした。

日本も、学会も「空気」に支配されてきたのだと思います。

(2) 「空気」の特徴
日蓮大聖人も三代会長も強い意志をもって悪と闘っています。創価学会ならば、大聖人と三代会長に倣うべきです。
頭に浮かぶのは、「立正安国」であり、「破邪顕正」です。
「立正安国論」は十問九答で構成されています。「立正安国」は「対話」と言う手段を用いています。執筆の意味は、「空気を変える」地道でかつ確実な手法は「対話」であると主張しているのだと思います。立正安国論は破折の書です。対話を通して、破折することにあります。
ちゃんと考えればおかしいと気付くことも、手をこまねいてそのまま放置すれば「なんとなくの空気」が蔓延ります。これに対し、民衆が立ち上がり、声を上げること、小単位の懇談で本質に迫っていくことこそが、「空気」を変える「対話」であると言われているように思います。

最近の日本の状況は、かつて来た道を再び辿っているような、危険な空気に包まれているように感じます。「反省などするつもりもない」と公言する指導者に率いられているのですから当然でしょう。今、日本も世界も非常に危うい状態であると多くの人は感じ、憂いています。この状況を変える術はないのでしょうか。この「空気」に抗う手段のことです。その一つが「対話」ではないでしょうか。

もう一度、整理したいと思います。「空気」とは何でしょうか?
よく考えもせず、周りの意見に飲み込まれる様子なのだと思います
同時に、誰も責任を取らないのに、そして自分も責任を取る気もないのに、批判者を吊るし上げることです。

煎じ詰めれば、「空気」とは、民衆の心に忍び寄る魔の雰囲気なのでしょう。
そして、それは、愚かさの侵蝕でもあります。
それは、同時に、傲慢さに支配された姿でもあります。

自分がしっかり考えれば、責任を持って考えれば、デタラメな考えに流されることなどなかったのに、それができません。

また、よりよく生きるためには、「努力」が必要です。
「努力」というと鼻で笑う輩がいます。
「自分一人が努力しても、変わる訳がない」としたり顔で批評します。
しかし、それは傲慢です。
人を蔑み、自分に驕る姿です。

「人を尊び」「人の幸福を願う」姿勢が大切だと思います。

「法華経の智慧」には、人間を信じ、変革の可能性が書かれています。どこまでもポジティブな本です。読めば「頑張ろう」という気持ちが湧いてきます。
一方、「創価学会教学要綱」は違います。ポジティブなことは書かれていません。陰々滅々として、従来の教義の否定ばかりが並んでいます。読んで、元気になる本ではありません。また「読んで分かってもらいたい」という作り手の一念も感じられません。まるで、「これが教義だ」「会員は読め」と言わんばかりの、上から目線の本である印象です。だから、先生が監修された痕跡など感じないのだと思います(事実、いまだに先生が監修したという証拠などは提出されていません)。

また、「空気」とは、傲慢な人間達が作り出す「圧力」です。
「空気」という言葉からは、何か柔らかいものを想像しますが、この悪い「空気」は、もっともらしい口調で人を騙します。一見、正しいような理屈を並べ、人を騙します。しかし、きちんと調べ、考えれば全てがデタラメだと分かります。つまり、真面目な人を馬鹿にしているのです。

また、「空気」とは、一見すると人に合わせているような印象を受けます。「皆のために、これが必要なんだ」「こうすることが大事なんだ」と主張しているように感じます。しかし、実は「自分中心」な人間が集まって作り出す「傲慢さの集合」なのではないでしょうか。しかも、この「空気」に抗えば、批判されます、時に弾圧されます。そして、この「空気」を打ち破るには勇気が要ります。覚悟が要ります。

(3) 「空気」に抗う術
先に、「対話」の重要性を取り上げました。
ここで、「空気」と闘うにはどうすればよいかを整理しておきます

先ず、「自分が…」「自分なら…」と主体的な生き方をするべきです。
そのためには、自分の頭で考えるべきです。そして、考えた上で、責任をもつことが大切です。
そして、そうすべきだと決めたなら、勇気を持って事に当たるべきです。

日蓮仏法は正邪を峻別します。そして、破邪顕正の行動を採ります。悪とは決して妥協しません。悪と決別し、対決することになります。そのためには、自分の頭で考えなければなりません。

もう一度、「空気」と闘うことを整理します。

先ず、あるべき姿を思索し抜くことです。自分の頭で考えることです。他の信頼できる人と話し合うのも良いでしょう。ともかく探し求めることです。思索し探求し抜いたものはやがて信念になります。「空気」が自分で考えることを放棄し、他人の言葉に責任を預けるのに対し、よく考えた上での信念を持つことです。
次に、勇気です。やるべきことをやり遂げる責任です。人に責任を預けるのではなく、やるべきことを完遂する決意が重要だと思います。
そして、覚悟が必要です。やるべきことをやろうと試みても批判はあるでしょう。時には弾圧されることもあります。たとえ難に値おうとも挑み続けることです。難に値えば、それが本当に必要かを吟味できます。

(4) まとめ
最後に、もう一度、記します。
おかしな「空気」に飲まれないためには、

・考えなければならない
・責任を持たなければならない
・努力し続けなければならない

が重要だと思います。

かつての時代の反省から考えれば、世の中をまともに保ち、人が幸せになるためには、悪と闘うことが重要です。おかしいと感じたら、声を上げることが大切なのだと思います。

「自分一人が声を上げても、何も変わらない」と諦めてしまう人もいます。確かに、一人の人が行動を起こしたとしても、その影響は小さいかもしれません。また「対話」という手法も、地味な手法のようにみえるかもしれません。それを個人レベルで行ったとしてもたかが知れていると思うのは当然でしょう。

しかし、巨大な宗教団体であっても一念がズレると何もできません。学会は「平和」「平和運動」などと派手な言葉を羅列しますが、世の中は益々悪くなっています。平和は壊されているだけです。要は、人数の多寡が問題ではありません。

たった一人であっても、堂々と正義を叫ぶことが重要なのだと思います。「一念」が大切です。「心こそ大切なれ」なのだと思います。そして、それこそが運動の原点であり、基本でなければならないと考えます。

「対話」という手法は、世の中を変えるための手法だと思います。
従来の教学では、「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」と言われていました。大聖人の弘教の方法も「問答」だったと思います。それは破折なのだと思います。問答=対話を通して、心を変えることだと思います。そして、一人の人間の心を変えることで、時代を支配している鬼神(思想)を変えることを目指そうとされていたのではないでしょうか。

勿論、「立正安国論」で説かれているのは、破邪顕正の破折であることは間違いありません。未だ起きていない二難を避ける目的もあったと考えます。同時に、それは「空気を変える」ことに通じていたと考えられはしないでしょうか。

大聖人の仏法を持つ人間が、創価三代の会長の跡を継ぐ会員が、正義を語ることが重要だと感じます。それこそが「空気を変える」ということなのではないでしょうか。

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