教学随想「日蓮が不思議」文(1)

投稿者:鬼滅の言こと藤野卓也

『さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頸切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなく・ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、例せば立正安国論に委しきが如し、かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ、つきたる弟子等もあらぎかなと思へども力及ばざりげにてある程に』
(種種御振舞御書 御書全集p.919)

種種御振舞御書の御文について、男子部の時代から今まで、開目抄に批判的な弟子がいたということが強烈に残っていました。ただ、それだけしか感じていませんでした。

しかし、最近感じることは、「中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ」との御文です。今までは何も思わず、ただ四条金吾の使いが来たので、開目抄を託した。来たから預けた、としか思っていませんでした。

しかし、弟子たちが批判した開目抄を日蓮大聖人は、四条金吾に届けたのです。何故か-竜の口で生死を共にした四条金吾こそ、この書を読むべき人であり!拝すべき資格がある弟子である!ということに他なりません。開目抄の真意を理解できる弟子は金吾しかいないのです。開目抄の「我並びに我が弟子」-我が弟子!それは四条金吾への呼びかけなのです。そして「自然に仏界にいたるべし」-その仏界に至る人とは、大聖人はともかく、四条金吾、あなたなのだ!と言われている。私はそう思います。(その理由は別の機会に述べます)

そして、今、感じている点は、「日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり」との御文です。この御文も、今までは全く何も思わなかったのですが、「不思議」-その言葉が引っかかっています。不思議?開目抄に不思議が説かれている。それは何?との思いです。そして「日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり」と説かれていることからも、開目とは大聖人にとっての開目ではないのか!との思いに至りました。
(続く)

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