日興上人について

日興上人は、寛元4年(1246年)3月8日、甲斐国大井荘鰍沢(現在の山梨県富士川町)にて誕生されました。父親は大井橘六、母親は駿河国富士の河合入道の娘で妙福といいます。具体的な時期や原因は不明ですが、日興上人の幼少期に父親が他界し、ほどなくして母親は武蔵国の綱島九郎太郎と再婚したため、日興上人は母方の祖父である河合入道の元で養育されることになりました。幼い日興上人にとって、父親も亡くし、母親とも離れ離れに暮らすことになり、言い知れぬ寂しさを感じていたことでしょう。このように、日興上人の幼少期は決して順風満帆なものではなく、幼いながらに苦労を重ねた時期でありました。

7歳になるころ、日興上人は祖父の勧めにより駿河蒲原庄(静岡県庵原郡蒲原町)の天台宗寺院、四十九院に上り、良覚美作阿闍梨のもとで外典や国書をはじめ、歌道や書道を修学されました。一説には、その後の正嘉元年(1257年)日興上人12歳の時、正嘉の大地震を機に立正安国論の構想を練られるため、大聖人が富士岩本実相寺を訪れ、一切経を閲覧された際に、近郊の四十九院修学中の日興上人との出会いがあり、日興上人が自ら願い出て大聖人の弟子となったとの伝承がありますが、現時点ではその説を裏付ける根拠は見つかっておりません。実は残念ながら、大聖人と日興上人がいつ、どこで出会い、どのような経緯で師弟の契りを結んだかという重要な出来事について、詳しいことはまだわかっていません。

そもそも、「神国王御書」には、大聖人の住まわれていた草庵には一切経が納められていたことが記されており、わざわざ岩本実相寺に出向いて閲覧する必要はないため、大聖人が実相寺を訪れたこと自体定かではないのです。また、弘長元年(1261年)から3年間における伊豆流罪においても、日興上人は大聖人に随行し、常随給仕したとの伝承もありますが、これについても伝承を裏付ける確かな根拠は発見できておりません。

文永5年(1268年)、この頃、日興上人が修学中の四十九院からほど近い岩本実相寺では、鎌倉から天下りで住職となった人物が権威をかさに着て傍若無人に振舞い、聖職者にあるまじき悪逆の限りを尽くしていました。この惨状を目の当たりにした日興上人は、実相寺の腐敗堕落を糾弾、改革する戦いを起こします。この時日興上人は23歳。住職による飲酒や淫行、供養の横領など、51箇条にも及ぶ悪行の数々を告発した「実相寺大衆愁状」を幕府に提出し、住職の解任を訴えました。この戦いに大聖人がかかわった形跡はなく、大聖人といまだ出会う前の青年日興上人による破邪顕正の闘争であったと思われます。元来、正義感にあふれ、気骨に満ちた日興上人の御性格を象徴する出来事の一つです。

ちなみに、自活檀林では、大聖人と日興上人の出会いについて、ちょうどこの頃に日興上人が、同じく天台出身の日蓮という人が宗教改革運動を行っているという噂を耳にし、教えを求めて自ら大聖人に接近していったのではないかと推察しています。文永7年には富士松野家出身の日時が、日興上人に従って大聖人の弟子になっていることから、おおむね文永5年から6年頃の間に、大聖人と日興上人の出会いがあったのではないかと考えております。

文永8年(1271年)の龍口法難、そして佐渡流罪と続く大難の際、26歳の日興上人は大聖人にお供し、3年に亘る流罪期間中、万難を忍んで常随給仕されました。文永11年(1274年)3月、流罪赦免により大聖人は鎌倉へ戻られ、その年の12月には日興上人が弟子の甲斐国波木井実長を通じ大聖人の身延入山を誘引されます。大聖人の身延入山後、日興上人は富士方面への教線拡大に向われ、南条時光をはじめ、河合、松野、高橋家などの門下を教導していきます。

文永12年(1275年)1月の「春の祝御書」には、大聖人が正月に日興上人を南条兵衛七郎(時光の父)の墓参りに遣わしたことが述べられており、この時の墓参がおそらく日興上人と時光の最初の出会いであったと思われます。日興上人30歳、時光17歳の時でありました。この出会いを機に、両者の間に深い因縁の絆が結ばれ、以来、時光は日興上人を兄とも仰ぎ親しく指導を受け富士方面の中心的な存在へと成長していったのです。この時兵衛七郎が亡くなってから10年ほどの年月が経っているにもかかわらず、日興上人を墓参に遣わすという御配慮に、特に時光の母、尼御前に対する大聖人の深い思いやりと、若き人材を繋ぎ育てようとするお心が拝されます。

建治年間には、日興上人の富士方面への活発な弘教によって、数多くの弟子門下が入信していきました。そのような中、富士熱原の天台宗寺院、滝泉寺の僧であった日秀や日弁らをはじめ、多数の在家信徒が大聖人に帰依したことを契機に滝泉寺と権力者らが結託して、農民信徒を迫害したいわゆる熱原法難が惹起します。この法難の淵源は、先の岩本実相寺の腐敗や、隣接する四十九院の堕落といった、同じ富士一帯の天台寺院の問題に取り組まれていた、日興上人の闘いの延長線上に起こったことがわかります。

弘安二年(1279年)9月21日、熱原の農民信徒20名が無実の罪を着せられて不当逮捕され、そのまま鎌倉へ連行されてしまいました。日興上人はすぐさま農民信徒の後を追い鎌倉入りし、四条金吾や富木常忍らの門下と共に、逐一身延の大聖人に報告を入れ、指導を仰ぎながら、事件対応に奔走します。農民信徒を苦しめてきた滝泉寺の悪行の数々と、下方政所との結託を暴き、この逮捕を不当逮捕であると告発した「滝泉寺申状」を作成し、幕府への提出を準備していく中、事件の幕引きを急いだ平左衛門尉によって、10月15日から17日の3日の間に、農民信徒3名が処刑、残る17名が追放という形で、申状を提出する間もなく、事件は一方的に幕引きをされてしまいます。

しかし、この法難において特筆すべきは、農民信徒20名全員が命に及ぶ大難の中一人の退転者も出なかったことでした。彼らはこの時、信心を始めてまだ1年足らずであり、大聖人と直接お会いしたこともない人たちでした。そんな彼らが、苛烈を極める弾圧に対し、なぜ信仰を貫き通すことができたのか。これこそひとえに、日興上人による農民信徒への激励、教導のたまものであったと思います。彼らは仏法の深淵な教義にではなく、日興上人のお姿、お振舞いを通し、仏法のすばらしさ、大聖人の偉大さを実感していったのです。

熱原法難は、日興上人を中心とする大聖人門下の「弟子の自立した戦い」によって引き起こされた大難であると同時に、こうした門下の不退の信仰の確立が、大聖人をして「我が出世の本懐」と言わしめた、仏法上重要な大事件でした。この時日興上人は34歳。師匠の一念を体現した弟子の戦いによって、師匠の本懐成就を導いた、まさに師弟の不二の共戦だったのです。

このように、日興上人は大聖人ご在世の間、大聖人の教え、精神を自ら体現しつつ、それらを寸分たがわず後世に伝えていくことを自らの使命とし、戦い続けられました。その根底には、大聖人を「法主聖人」「法華聖人」と呼称され、単なる師匠ではなく、仏として尊崇するという日蓮本仏思想がありました。また、大聖人ご自身も、数ある弟子の中で、日興上人を最も信頼されていたことは、大聖人から日興上人だけに与えられた3通の「下文」によって明らかです。

「下文」とは、当時の行政機関が通達する命令書のことで、最も重要な書状のことです。この「下文」の形式で書かれた大聖人の書状は三通あり、二通は熱原法難時に認められた「伯耆殿御書」と「伯耆殿等御返事」。残る1通は大聖人生涯最後の書状とされる「法華証明抄」で、いずれも「下す」の字をもって日興上人に与えられています。日興上人は、その特別な感慨を「大聖人の六人の本弟子の中で、『下す』の字をもって書状を賜ったのは、日興只一人である。」と記しており、この不二の弟子の自覚と責任が、大聖人の仏法を未来へ流れ通わしめる原動力となっていったのです。

弘安5年(1282年)10月13日、大聖人は武州池上宗仲邸で御入滅されました。この時日興上人は37歳。翌14日には葬儀が執り行われ、2日後の16日に、日興上人によって葬儀の次第や大聖人の遺言などを記録した「宗祖御遷化記録」が執筆されています。その後、身延に大聖人の墓所を建立し、翌弘安6年(1283年)1月、大聖人の百箇日にあわせ、日興上人によって弟子門下が毎月交代で大聖人のお墓や身延山を管理する「墓輪番制」が制定されました。しかし、この制度は数年を経ずして崩れ去り、久しく管理者が不在となった大聖人のお墓は、荒廃してしまいます。

翌、弘安7年(1284年)、日興上人は身延を訪れた際、荒れ果てた大聖人のお墓を目にして愕然とします。同年10月18日付の「美作房御返事」からは、墓輪番制が崩れたのは、五老僧と地頭波木井実長との間に何らかの誤解による軋轢が生じ、老僧たちが「身延には大聖人の魂は住まわれていない。」との強い身延反発の意思があったことに起因していることがうかがえます。

日興上人はこの「美作房御返事」の中で、「地頭の波木井も私も、老僧の方々に対してなにも不審に思っていることなどありません。どうか誤解を解いて身延に来ていただけませんか。」と、誠意をもって誤解解消を訴えられています。しかし、日興上人の仲裁の労もかなわず、民部日向を除き他の老僧たちの登山はついに叶いませんでした。こうした中、いつまでも身延を荒廃させたままにしておくわけにはいかないとの深い憂慮の上から、日興上人は身延常住を決意され、弘安7年の暮れ頃に身延に入山されました。日興上人39歳の時でした。

ですが、日興上人の身延在住もわずか数年で終了してしまいます。正応元年(1288年)12月16日付の「原殿御返事」には、日興上人が身延離山を決意した原因として、民部日向が法座の席で酒宴に興じ、醜態をさらして大聖人の名を汚したこと、地頭の波木井に神社参拝や仏像建立などの謗法を許したこと、さらには波木井に対し、師匠の日興上人を捨て、代わりに日向が師匠になると吹き込み惑わしたことなど、日向の数々の謗法、堕落の実態を挙げられています。

日興上人は、「身延離山は、大聖人に対し面目なく、その無念さは言い表しがたいが、どこの地であっても、大聖人の仏法を世に広めていくことが最も肝要なのである。」と、その断腸の思いを吐露されつつも、「大聖人の弟子たちは皆、師敵対してしまったが、日興ただ一人が大聖人の正義(せいぎ)を守り、広宣流布の本懐を遂げる者であるとの自覚に立ち、その本意を忘れることはない。」と、一人敢然と立ち、大聖人の正法正義を広宣流布していくとの厳然たる決意を述べられています。

身延離山後日興上人は、南条時光の勧めによって、富士上野の大石ヶ原に移り、正応3年(1290年)大石寺を開創しました。日興上人はしばらくこの地で弟子門下の教導に当たられますが、お世話になっている南条家の経済状況が芳しくなく、これ以上南条家に負担をかけるわけにはいかないとの思いから、8年後の永仁6年(1298年)、日興上人53歳の時、南条時光の姉が嫁いだ先の石川家からの要請もあり土地の寄進を受け、富士北山に御影堂を建設し移られました。

そこで終生、弟子の育成に努める傍ら、大聖人自筆の御書や御本尊の収集にあたられ、仏の教えを後世に正しく残すべく尽力されます。加えて、弘安年間の終わりころからは、弟子たちの要請に応え、御本尊書写も行っていきます。この、大聖人の顕された文字曼荼羅こそ末法における正しい御本尊であるという曼荼羅本尊正意もまた、日蓮本仏と同様に大聖人の教えを正しく継承した日興上人における重要な思想と言えます。

その後、日興上人の晩年には、久しく疎遠になっていた五老僧との間におけるいわゆる「五一の相対」が顕在化していきます。老僧らは自らを大聖人の弟子ではなく、天台沙門であると称し、大聖人の教えに反する邪義を唱え、権力の庇護を受けるなどして腐敗堕落していきました。

日興上人は、五老僧の師敵対の大罪を永遠に残しとどめると共に、大聖人の正法正義の上から徹底的な批判を加えられた「富士一跡門徒存知の事」「五人所破抄」を顕されていきました。「富士一跡門徒存知の事」では、冒頭に「大聖人滅後、高弟とされた者たちがたちまち勝手な教義を唱えだし、大聖人の法門を改変してしまった。」と述べられ、五老僧らの犯した数々の不法を列挙し、破折を加えられています。

最初の項目には、五老僧が「日蓮は天台の流れをくむ者であり、日蓮の法門は天台の法門と同じである。」などと主張していることに対し、日興上人は「天台、伝教の法門は法華経迹門の教えである。大聖人の法門は法華経本門(文底)であり、そこには天地雲泥の差がある。」と破折されています。このことからも、日興上人が大聖人を仏と捉えていたことに対し、五老僧は天台の流れをくむ高僧の一人といった程度の認識しかなかったことが一目瞭然です。この事こそが、日興上人と五老僧における最も重要な相違点であり、日興上人の法統こそが清流であることの証左であると思います。

また、大聖人所顕の文字曼荼羅についても、五老僧は「本尊は釈迦如来を崇めるべきであり、仏像を建立して安置すべきである。」としていることに対し、日興上人は「大聖人の法門では仏像を本尊と立てる義はない。大聖人自筆の曼荼羅をもって本尊とすべきである。」と、明快に喝破されています。

さらに、文字曼荼羅を本尊としてとらえることのできない五老僧が、捨てたり、あるいは死体に巻いて棺に入れたりと、御本尊を粗末に扱っている惨状に対して、「大聖人自筆の御本尊は、全世界、全人類を救済するための宝である。みだりに子孫にも譲ってはならず、一か所に集め奉安し厳護すべきである。」として、門下に対し御本尊の重要性や御本尊に対する信心の姿勢を厳しく説かれています。

同様に、日興上人は大聖人の執筆された数々の書状に対しても、「御書」と称して尊ばれ、後世に留めるために収集、写本に努められています。末法の一切衆生を救済する仏としての大聖人の一切を、過たずに未来に伝え残せるのは自分しかいないという、日興上人の弟子としての気迫が伝わってきます。

このように、日興上人は最晩年に至るまで、不二の弟子として大聖人の正義を叫び、破邪顕正の戦いを続けられ、正慶2年(1333年)2月7日、88歳でその尊い生涯を終えられました。

大聖人滅後700年。仏意仏勅の創価学会が誕生し、三代会長の死身弘法の戦いによって、世界に大聖人の仏法が広まり、その中で私たちも素晴らしい仏法に巡りあうことができました。しかし、本を正せば、これはとりもなおさず、日興上人による正法伝持の戦いがあったればこそ成しえたことなのです。これまで、創価学会においても、日興上人を三宝における僧宝として尊んで来たのは何故か。師匠がいくら正しい法を説いても、弟子がそれを正しく受け止めなければ未来に法はつながりません。これまで述べてきました通り、唯一、大聖人の教えを正しく受け継いだのが日興上人なのです。

その意味において、私たちが大聖人の仏法を行ずる上で、日興上人は絶対に外してはならない存在なのです。私たちの信仰は、言うなれば日興流日蓮宗といっても過言ではなく、大聖人の仏法を正しく受け継いだ日興上人の教えが根幹をなしているのです。このように仏宝、法宝を正しく受け継ぎ、示されたからこそ、不二の弟子である日興上人を僧宝と立てるのです。

以上の事から、原田学会が三宝の意義を改変し、僧宝から日興上人を外してしまったことがいかにとんでもない間違いであるか、お判りいただけたかと思います。時代とともに変化しなければならないこともあるでしょう。しかし、変えてはならないものがあるのです。私たちは、これからも、日蓮大聖人、日興上人、そして創価三代の会長に受け継がれた正しい教えを学び、実践し、そしてまた後世に正しく伝え残す大きな使命があると思います。

この重要な使命をかみしめながら、恩師池田先生のご恩に報いるためにも、共々にまた頑張ってまいりたいと思います。

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