【投書】広宣流布にとって必要か否か。

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投書者:カナリア

今から20年近く前になろうか。日蓮正宗改革同盟の若手僧侶に質問する機会があった。

今思えば、ご僧侶にとっては、若干意地の悪い質問だった。私は尋ねた。「将来、僧侶という存在は、どうなると思われますか?」と。学会と宗門が離別したからには、僧侶という存在は、将来必要なくなるのではないか、という含意を含んでのものだった。

すると若手ご僧侶は、私の想定を超えて、以下のようにお答えになった。

「広宣流布にとって必要ないものであれば無くなりますし、必要性があるのであれば残るでしょう」

「広宣流布は仏事である故、究極的には大御本尊が決めるでしょう」とのお答えであると、私は受けとめ、納得、得心したのを覚えている。

「広宣流布にとって必要なものは残るし、必要ないものは無くなる」・・。納得性あるこの観点に立つなら、日本の創価学会に於ける、現状の中央集権化した「組織」は、無くなって行かざるを得ないのではないか?

そう、方面長・都道府県長・総県長・分県長・圏長などという、上意下達の組織は、20世紀の遺物であり、最早必要のないものと言わざるを得ない。現在はその消滅のプロセスの過程の中にいるのだろう。

「公明党への選挙支援と、信濃町新聞の啓蒙をやっていれば、広宣流布は進む」と、本気で思っている方がいるとすれば、その人は正真正銘の「馬鹿者」である。また、そうは思わないけれどもやっている方がいるとすれば、その人は「事なかれ主義」の人であり、未来を考えない無責任な人である。

いずれにしても、現在3,000名前後(外郭含み)とも言われる、忖度第一の職員幹部達。その多くが、会員や広宣流布にとって最早有害な存在であり、21世紀には不要な人達なのである。各県毎に数名の事務員がいれば事足りる、新たな体制を作っていくべきなのだろう。

いずれにしても、スーツを着た坊主・尼さん達の存在しない、新しい価値創造の団体の再生。

そして自立せる個々人が、池田先生の哲学を基準として「尊敬される組織」を、一から作っていく事。これが当面の課題なのだと思う。

【投書】広宣流布にとって必要か否か。” に対して1件のコメントがあります。

  1. いっこく堂 より:

    静かな足音で、しかも鋭い響きを秘めた投稿に、いつも頷いています。美しい声で人々に危険を伝える、まさに「炭鉱のカナリア」の様です。
     これからも投稿楽しみにしています。

  2. 洋平太 より:

    コメント反応ができる様になったんですね。カナリアさんファンの一人として嬉しいです。
    カナリアさんの投稿にいつも刺激を受けています。友人との議論のネタにも使わせて頂いています。
    これからも続投お願いいたします。

  3. 自活キング より:

    カナリア様、刺激的な投稿ありがとうございます!
    組織幹部は学会本部の意向を優先した活動を打ち出すばかりで、現場の声に耳を貸さないばかりか、意見する人間が排除されることもあります。その弊害もあり現場は指示待ち、これでは溌溂とした学会活動は出来ないと思います。
    学会伝統の個人指導の目的は、個々の問題に同苦し、ともに宿命転換していくことにありますが、現在の創価学会は、組織の意向を優先して個々の問題に目をつむっているようにみえます。
    こうなってしまったのは、創価学会が貴族仏教化したことにあると思いますが、自ら権威主義化した創価学会に変革は期待出来ません。
    であるならば、私たちは権威主義と戦う責任を自覚して、自ら考え行動していかなければと思います。
    広宣流布に自活信仰は必要だと決意を新たにしました。

  4. 華太郎 より:

    皆さまの意見に全く同感です。
    幹部への忖度しかありません。 上から言われるまま下へ話をおろす、その時に疑問に思っても誰も口を開きません。 現場で「なんかおかしいよね」と言い合うだけです。 口を開き意見を言うものはつぶされています。

    組織の形が変わっていく途中経過にあると思っています。
    自立した信心をしていくしかないと思っています。

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