師の在世、滅後に関わらず、いつも師と共に
日蓮大聖人の図顕曼荼羅に、日興上人が「本門寺に懸け万年の重宝」と添え書きされた御本尊があります。
弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、 (日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(また同御加筆御花押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり 法道院蔵(現在は大石寺) (富士宗学要集8巻P178 )
弘安四年太歳辛巳三月日、俗日大に之を授与す、(興師加筆)富士顕妙新五郎に之を与へ申す、本門寺に懸け末代の重宝たるべきなり 讃岐本門寺蔵 (同8巻P213 )
建治二年二月五日(興師加筆)日興が祖父河合入道に之を与へ申す、本門寺に懸け万年の重宝たるなり 西山本門寺蔵 (同8巻P220 )
さらに「富士一跡門徒存知の事」には、
爰に日興云く、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河国富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ、仍つて広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり。
とあり、
日蓮大聖人の御筆の御本尊について「広宣流布の時本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し」ともあります。
ということは、今さらながら改めて思いますが、「日興上人は広宣流布を本気で考えていた」ということ。これはまさに刮目されるべきことではないでしょうか。
日興上人は身延を離山して大石寺を開創。後に重須に移り、後進の育成に励まれたわけですが、師匠から「一弟子」とされた門下は分裂。日頂は日興上人のもとに入りますが、日持は不明となり、日蓮一門は実質的に日興、日昭、日朗、日向の門流となったわけです。
分裂ということは、勢力は激減で半ば各地のローカル宗教といったところでしょうか。日満は佐渡で教線を張り、日仙は讃岐へ、日目は奥州へ、朗門の日像は京都へと布教しますが、それでも顕密仏教といわれた他宗からすれば微々たるものだったことでしょうし、一門も四分の一なのです。大聖人亡き後の弟子は、広宣流布どころか門流(教団)をいかに維持していくかに腐心したのではないかと思われます。
さらには日興上人の門流でも、後には「広宣流布の時には本尊は曼荼羅か、仏像か」「方便品読不読」で、弟子同士で論争になったくらいですから、教学的にも確立されているようで個々の弟子では理解が乏しかったり、異論を胸に抱えたままの人物もいたのかもしれません。重須は地理的にも時代の舞台とは言い難い環境でした。
ですが日興上人は弟子の育成に心をくだき、御本尊も書いて顕して数百幅。その心は「広宣流布の時至り」「広宣流布の時」「本門寺に懸け奉り万年の重宝」であり、広宣流布というものを視野に入れていたわけです。罪人として配流された佐渡で、法門書を著し本尊を図顕して強信者を育成した師の大聖人と通じるものを感じてなりません。
日興上人の胸には、師と共に過ごしたあの極寒の地での奮闘、熱原での文字通りの「法戦」が絶えることなくたぎっていたのではないでしょうか。
「師の在世、滅後に関わらず、いつも師と共に」
ここに「日蓮仏法のこころ」があると思うのです。
※日興上人の晩年に時代は大きく動き、
正中の変
元弘の変
楠木正成の挙兵
後醍醐天皇が隠岐へ配流
護良親王が挙兵
後醍醐天皇が隠岐を脱出
(日興上人入滅と同じ1333年)鎌倉幕府が滅亡
となるわけですが、現在、日興上人を拝するような思いで学ぶ人はいても、鎌倉幕府に手を合わせる人、日常的に思う人はいません。権力のはかなさと、日蓮仏法に生き抜く心の広がりというものが実に好対照のように思えます。