一弟子の歩みに思う

富士一跡門徒存知の事

彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈は之無き者なり。縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若は俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて愚癡の者を引摂したまえり。

而るに日興、聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云々、故に諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ。

此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり。

意訳

彼の五人一同はこのように言う。

「日蓮聖人の著作において、正式に法門、経、論を解釈したものはないのである。例え少しあるといえども、あるいは在家の人のために仮名文字で仏法の因縁を粗々示したものであり、若しくは世間の男女がごく僅かな供養を捧げた手紙の返書として、檀越が供養された財物等を書いて、愚癡の者を仏法へと誘引されたのである。

しかるに日興はそのようなものを聖人の御書と称して、人々に講義をしたり、語り合って読んでいる。そのようなことは先師・日蓮聖人の恥を顕すものである」等々。

故に、彼らは各地に散在している、大聖人の御筆の書をあるいは漉き返したり、あるいは火で焼却しているである。このように先師の残されたものを破滅している故に、詳しく記して後世の手本とするのである。

・・・この後は「十大部」の記述へと続きます・・・

「富士一跡門徒存知の事」が著された頃には、大聖人の一弟子六人、特に日興、日昭、日朗、日向の門流がかたちとなっていましたから、対抗意識や正統性を主張する様々な思惑も入り乱れており若干の誇張があったとしても、記述に故なきことはないと理解してもよいと思います。焼却も事例数はともかく、そのようなことが見られたということでしょうか。

気になるのは、やはり大聖人の御書に対する認識というもので、檀越に分かりやすいように書かれた仮名文字交じりの書簡、供養への返礼、を単なる愚痴の者を仏法に誘引しているに過ぎないとしていたこと。また、日興上人が大聖人の一つ一つのお筆を御書と読んで大切にし、師匠の言葉を学び語り合っていることをさげすむような目で見て、しかも師の恥を顕すものであるとしていたことです。対して日興上人は、十大部と称される法門書、教示、書簡をまとめる、収集と書写、その保全に精魂を傾けていくのです。

このような日興上人の姿勢は、「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり、法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり」(守護国家論)と師の大聖人が経典世界に仏を見たように、師匠なき時代に師の書き残されたものに「師の真実」と「師の心」を拝したのではないでしょうか。

大聖人が入滅したのが弘安5年(1282)10月13日、「富士一跡門徒存知の事」が書かれたのが嘉元年間(1303~6年)とも推測されており、大聖人亡き後、20数年後の記述が該文となるわけですが、師匠存命中の書簡に対する認識ですから、おそらくは師の存命中から「愚痴の者への仮名文字説教、ものをもらったお礼にすぎぬ」等の認識であったのでしょう。それが時間をかけて鮮明となり、御書を講義し語り合う日興上人を蔑み、実際にすき返し焼却という事態にまで至り、ここに記されることになったのだと思います。

同じ時、同じ場所で師匠の言葉と心に触れながら、その後の展開は全くの別宗教のようなものとなってしまった・・・

日興上人と他の一弟子たちとの歩みから、私達は多くを学べるのではないでしょうか。

                                     林 信男