法難から壊滅へ、そして新生のとき

日蓮大聖人入滅後の弘安5年(1282)10月16日、日興上人の記した「宗祖御遷化記録」冒頭の記述には感慨が込み上げてまいります。

宗祖御遷化記録 (西山本門寺蔵)

一 弘長元年 辛酉 五月十二日 伊豆国被流 御年四十

預伊東八郎左衛門尉 造立正安国論一巻 奉最明寺入道殿也

  同三年二月廿二日赦免

一 文永八年 辛未 九月十二日 被流佐土島 御年五十

  預武州泰司 依極楽寺長老 良観房訴状也 訴状在別紙

  同十一年 甲戌 二月十四日赦免

  同五月十六日 甲斐国波木井身延山隠居 地頭南部六郎入道

意訳

一、弘長元年辛酉五月十二日 伊豆国に流され御年四十

伊東八郎左衛門尉に預けられる 立正安国論一巻を造り最明寺入道殿に奉るによるなり。

同三年二月廿二日 赦免。

一、文永八年辛未九月十二日 佐土が島に流され御年五十

武州の前司に預けらる 極楽寺長老良観房の訴状に依るなり。訴状は別紙に在り。

同十一年甲戌二月十四日 赦免。

同五月十六日 甲斐国波木井の身延山に隠居す 地頭南部六郎入道。

日蓮大聖人が伊豆へ流されたのは、「立正安国論」を以て最明寺入道・北条時頼を諫めた故。佐渡に流されたのは、極楽寺良観が大聖人を訴えた訴状による故。

これが大聖人と一弟子六人の共通認識であり、師匠入滅後の大事の記録に残したということは「日蓮門下が将来にわたって忘れてはならない」との、大聖人の思いが込められているのではないでしょうか。

大聖人は極楽寺良観を「第三の強敵」、即ち僭聖増上慢として指弾していました。

下山御消息

爰に両火房と申す法師あり、身には三衣を皮の如くはなつ事なし、一鉢は両眼をまほるが如し、二百五十戒堅く持ち三千の威儀をととのへたり。世間の無智の道俗国主よりはじめて万民にいたるまで地蔵尊者の伽羅陀山より出現せるか、迦葉尊者の霊山より下来するかと疑ふ。余法華経の第五の巻の勧持品を拝見したてまつれば、末代に入りて法華経の大怨敵三類あるべし、其の第三の強敵は此の者かと見畢んぬ」

「世間の無智の道俗国主よりはじめて万民にいたるまで」

鎌倉の人々は、

「二百五十戒堅く持ち三千の威儀を」

整える極楽寺良観を、

「地蔵尊者の伽羅陀山より出現せるか」

「迦葉尊者の霊山より下来するか」

と崇めていました。

しかし、日蓮大聖人は違います。

「法華経の第五の巻の勧持品を拝見したてまつれば」

法華経の明鏡を以て彼を見れば、

「第三の強敵は此の者かと見畢んぬ」

僣聖増上慢である!と見抜いていたのです。

故に、大聖人は、

「便宜あらば国敵をせめて彼れが大慢を倒して仏法の威験をあらはさんと思う」

良観相手に法の邪正を決する、の時を待ち望んでいました。

そのような時に、文永8年6月18日より24日に至る、「祈雨の勝負」という事態となります。「此に両火房祈雨あり、去る文永八年六月十八日より二十四日なり」(同)

結果は「一雨も下らざるの上、頽風風旋風暴風等の八風十二時にやむ事なし、剰二七日まで一雨も下らず風もやむ事なし」(同)と、強風が吹き荒れて雨は一滴も降らないというものでした。

その後、日蓮大聖人が「僣聖増上慢である!」として仏法で破折した相手は仏法で応じることなく、訴状を表にして権力に取り入り、働きかけて矢を放ってきたのです。

経典によらず、道理にもよらず、「誰かがこのように言ってきた」ということを口実にして法律を表に立てて権力に頼る。その実、やることは始めから決まっており、それはただ一つ「あいつを亡きものにする」ということ。

実際、大聖人は死地に陥り、鎌倉一門も一旦は壊滅しましたが、そこから「日蓮仏法」が創られたというのが史実です。現存御書の大半以上は佐渡期から身延期にかけてのもの。曼荼羅図顕開始は竜口法難の翌月。以来、現存だけでも百数十幅。

いわば「仏法に世法・国法で対した僣聖増上慢により、我が身も門下も全てを一旦は奪われた」ところから、大聖人は語りに語り、書きに書いて、「法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(撰時抄)と広宣流布を展望するまでの「日蓮が一門」(聖人御難事)を創りあげたのです。

法華経最第一と立正安国論の答えが伊豆配流、仏法による真正面からの破折の答えが権力と結託しての謀殺と迫害。

それでも「日蓮生れし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」(上野殿御返事)と妙法を広め、「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(御義口伝)多くの人々の苦悩を背負い込み、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(報恩抄)と慈悲の心で訴え抜いた大聖人。

僭聖増上慢の正体を見抜き、その姿を出させて、その彼により抹殺されてからが「本当の時」であった。

「宗祖御遷化記録」の「極楽寺長老良観房の訴状に依るなり」を見るたびに、「そこから始まりし物語」があまりにも多くを語りかけていると思えてなりません。

                                        林 信男