伝法御本尊を拝して~生身の日蓮は語り続ける

日蓮大聖人が数多く顕した曼荼羅本尊の中で、特に通称・伝法御本尊は完成形ではないかと思われるような見事な「姿」です。

「姿」というのは、伝法御本尊の流麗な筆遣いは日蓮その人の魂だけではなく、人物までが妙法となり語りかけているものを感じるからです。

伝法御本尊の図顕は「弘安三年太才庚辰[かのえたつ]十一月 日」、寸法は197.6×108.8㎝、料紙12枚継ぎの大きですが、壁一面を埋めるような巨大さには圧倒されます。

「釈子日昭伝之」との授与書きもはっきりと書かれていますが、「之」の字が「之_________」と驚くほどにのばされているのが印象的です。

伝法御本尊を近くで拝すると「日蓮法華の信仰世界ここに極まる」の感があり、まさに

「日蓮なき後の日蓮がそこにいる」

「永遠の日蓮は曼荼羅となり生き続ける」

「生身の日蓮は語り続ける、そして説き続ける」

の姿といえるでしょう。

思えば、日蓮大聖人は『観心本尊抄』で、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」と、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足しており、私たちは妙法蓮華経の五字を受持すれば、自然に釈尊の因果の功徳が譲与されることを明かしました。

ここです、このわずか二行に、『末法の教主としての日蓮』が読み解けるのではないでしょうか。

当時の宗教的常識では超えられない「釈尊の世界」を自己の信仰世界に摂入し、掌とすることによって妙法蓮華経の五字の信仰的意味合いを深化し、「釈尊の因行果徳の二法」は妙法蓮華経受持により自然譲与されるとの説示は仏・日蓮・我等(衆生)の異なり、隔たりも自然消滅させるに等しいもので、釈尊の仏法・法華経の日蓮化、即ち日蓮仏法誕生を物語る教示ではないでしょうか。

『釈尊を表に立てながら、その内実は日蓮仏法と化している』という教示が、曼荼羅図顕以降に見られるようになるのです。

同抄末尾では、「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頸(くび)に懸(か)けさしめたまふ」と、仏は大慈悲を起こして妙法蓮華経の五字に一念三千の宝珠を裹んで末法の衆生の首にかけられるとしますが、そのように書いてそのように成しているのが日蓮大聖人自身なのですから、大慈悲を起こす仏とは自らであると宣言にしているに等しい記述であるといえるでしょう。

日蓮一門が生活を共にし、「法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ」(忘持経事)と、法華経を拝し妙法を唱え、師の法華経講義が行われた身延の草庵。

そこで顕され続け、各地の弟子檀越に授与された曼荼羅本尊・・・それは

「我日本の柱(主)とならむ、我日本の眼目(師)とならむ、我日本の大船(親)とならむ(開目抄)と誓いし人ここに生き続けるの姿」

であると思えてなりません。

                                     林 信男