「富城入道殿御返事(承久書)」~一国有事の危機管理の要諦を指南
日蓮大聖人が口述し、弟子が代筆した「富城入道殿御返事(承久書)」(弘安4年(1281)10月22日)は、大聖人の文才があますところなく発揮された、表現豊かな書簡ではないかと思います。また、文中で、対蒙古戦の勝利の基準は「蒙古の大王」を倒すことであり、一時的な大風で軍船が沈んだことではないとしているところに、一国有事における危機管理の要諦のみならず、戦略・戦術的な根本目的を明示しているといえ、日蓮その人のただならぬ人物像が浮き彫りになっているといってもいいのではないでしょうか。
さらには、密教の祈祷で蒙古の軍船が沈んだとぬか喜びをしている風潮を、「惣じて日本国の凶事也」と喝破されているのには驚嘆します。後の時代になって「神風が吹いて蒙古の軍船が沈んだ」となり、「神国日本」「神州不滅」へと至って、結果としてあの敗戦・亡国となったのですから、鎌倉時代における日蓮大聖人の警告は昭和になって的中してしまったといえるのではないかと思います。
それでは、人間日蓮の魅力を感じさせる「富城入道殿御返事(承久書)」を読んでみましょう。
今月十四日の御礼、同じき十七日到来す。又去る後の七月十五日の御消息。同じき二十日比到来せり。其の外度々の貴札を賜ふと雖も老病為る之上、又不食気に候間、未だ返報を奉らざる候條、其の恐れ少なからず候。
意訳
今月十四日付けの書札(手紙)は同じく十七日に到着した。また、さる閏七月十五日付けの御手紙も同じく二十日頃に到着した。
その外、度々書札(手紙)を賜ったが、老病であり、また食欲も衰えているので、未だ返事ができないことを恐縮に思っている。
何よりも去る後の七月御状之内に云く、鎮西には大風吹き候て、浦々島々に破損の船充満之間、乃至、京都には思円上人。又云く、理豈に然らん哉等云云。此の事別して此の一門の大事也。惣じて日本国の凶事也。仍て病を忍んで一端是れを申し候はん。
意訳
何よりも閏七月のお手紙の中に「鎮西(九州)には大風が吹き渡って、浦々・島々に破損の船が充満しています」また「京都では、『思円上人(叡尊)の異国調伏の祈祷により元軍が敗北した』と評判になっています。このような仏法上の道理というものはあるのでしょうか」とあった。この事は別しては日蓮と一門の大事である。総じては日本国の凶事である。そのため、病苦を忍んでお尋ねの件について一端を申し上げたい。
是れ偏に日蓮を失はんとして無ろう事を造り出ださん事兼ねて知る。其の故は日本国の真言宗等の七宗八宗の人々の大科、今まで始めざる事也。然りと雖も、且く一を挙げて万を知らしめ奉らん。
意訳
思円上人による蒙古調伏の効験云云などは、前々から法の邪正と国の存亡について訴えていた日蓮を、元軍壊滅を契機に一気に葬り去ろうとして思いついた作り話であることは、兼ねてから知っているところだ。それは、日本国の真言宗を始めとした七宗・八宗の僧俗による大悪事の誤りは、今に始まったことではない。しかしながら、ここで一事を挙げて万事をお知らせしましょう。
去ぬる承久年中に隠岐の法皇義時を失はしめんがために調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・薗城に仰せ付けらる。仍て同じき三年の五月十五日、鎌倉殿の御代官伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失はしめ畢んぬ。然る間、同じき十九日、二十日鎌倉中に騒ぎて、同じき二十一日山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す。
意訳
去る承久3年(1221)、後鳥羽上皇(隠岐の法皇)が北条義時を討つために、義時調伏を天台座主・東寺・仁和寺(御室)・南都七大寺(七寺)・園城寺に命じられた。同じく承久3年の5月15日、上皇は朝廷方の軍勢に命じて、鎌倉幕府の京都守護職である伊賀太郎判官光末を京都の六波羅において殺させたのである。そうする間に同じ5月の19、20日の両日、京都での変事の一報が鎌倉に届き幕府を始め町中が大騒ぎとなったが幕府は反攻に打って出ることを決し、北条義時は5月21日、東山道・東海道・北陸道の三道から19万騎の軍勢を京都へと進ませた。
同じき六月十三日、其の夜の戌亥の時より青天俄に陰りて震動雷電して、武士共首の上に鳴り懸かり、鳴り懸かりし上、車軸の如き雨は篠を立つるが如し。爰に十九万騎の兵者等、遠き道は登りたり。兵乱に米は尽きぬ。馬は疲れたり。在家の人は皆隠れ失せぬ。
意訳
同じく6月13日、その夜の戌亥の時(午後8時から10時の間)から青天がたちまちのうちに曇りとなり雷鳴が轟きわたって、武士達の頭上に鳴り懸った上に、車軸のような豪雨は篠を立てたかのようであった。北条の軍勢、19万騎の兵達は遠い道のりを進軍しており、各地での激戦によって米は尽き、馬も疲れ果てていた。その上、近在の人々は戦を恐れて皆一同に逃げ隠れてしまった。
冑は雨に打たれ綿の如し。武士共宇治勢田に打ち寄せて見ければ、常には三丁四丁の河なれども既に六丁七丁十丁に及ぶ。然る間の一丈二丈の大石は枯葉の如く浮かび、五丈六丈の大木流れ塞がつ事間無し。
意訳
冑(かぶと)は雨に打たれて綿のようになっている。武士達が宇治・瀬田に押し寄せ宇治川を見ると、通常ならば三丁(一丁=六十間=三百六十尺=約109m)・四丁の川幅なのが、大雨により六丁・七丁・十丁もの川幅となっている。しかも一丈(一丈=十尺=3.0303m)・二丈もの巨岩が枯葉のように浮かび、五丈・六丈の大木により川の流れが塞がれること、間断のない有り様である。
昔利綱・高綱等が度せし時には似るべくも無し。武士之を見て皆臆してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過ごさば皆心を飜し堕ちぬべし。去る故に馬筏を作りて之を度す。処、或は百騎或は千騎万騎。此の如く皆我も我もと度ると雖も、或は一丁或は二丁三丁度る様なりと雖も、彼岸に付く者は一人も無し。然る間、緋綴赤綴等の甲、其の外弓箭兵杖、白星の冑等の河中に流れ浮かぶ事は猶お長月・無神月の紅葉の吉野・立田河に浮かぶが如くなり。
意訳
その昔、足利俊綱と佐々木高綱らが渡った時とは、比べようもない流れである。武士共はこれを見て皆、臆したようにみえたが、しかし、今日という日をこのまま過ごしてしまうと、皆心を翻して朝廷側に堕ちてしまうだろう。そのような心配もあり、馬筏を作って或いは百騎、或いは千騎、万騎と対岸への渡河を試みた。このようにして皆、「我もわれも」と川を度ったのだが、或いは一丁、或いは二丁、三丁と渡ったところで、対岸に着く者は一人もいなかった。こうして緋綴(ひおどし)、赤綴(あかおどし)等の鎧、その外に弓や箭(や)や刀や薙刀、白星の冑などが川の中に流れ浮かぶ様は、九月(長月)十月(神無月)の頃の紅葉が吉野・立田の川に浮かぶようであった。
爰に叡山・東寺・七寺・薗城等高僧等、之を聞くことを得て真言の秘法大法の験とこそ悦び給ひける。内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室、五壇十五壇の法を弥いよ盛んに行はれければ、法皇の御叡感極まり無く玉の厳を地に付け、大法師等の御足を御手にて摩で給ひしかば、大臣公卿等は庭の上へ走り落ちて、五体を地に付け、高僧等を敬ひ奉る。
意訳
比叡山・東寺・南都七大寺・園城寺などの高僧達は幕府軍渡河失敗の報を聞いて、「真言密教の秘法・大法の効験である」と喜んだのである。宮中の紫宸殿(ししんでん)においては天台座主・東寺・仁和寺の高僧が真言密教の五壇法を修し、更に41人の高僧がそれぞれの寺院で鎌倉方調伏のため15の修法を盛んに行った(祈祷抄に記録されている)ので、後鳥羽上皇は感極まって玉の飾りを地に着け、祈祷を行う大法師等の足を御手でなでられた。その様子を周りで見ていた大臣・公卿らは慌てて庭の上に走り落ち、五体を地につけて高僧等を敬い奉った。
又宇治勢田にむかへたる公卿殿上人は甲を震ひ挙げて大音声を放ちて云く、義時所従の毛人等慥かに奉れ。昔より今に至るまで、王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なる。狗犬が師子を吼へて其の腹破れざる事無く、修羅が日月を射るに其の箭(や)還りて其の眼に中らざること無し。遠き例しは且く之を置く。近くは我が朝に代始まりて人王八十余代之間、大山の皇子・大石の小丸を始めとして二十余人に、王法に敵をなし奉れども一人として素懐を遂げたる者はなし。皆頚を獄門に懸けられ骸を山野に曝す。
意訳
また、宇治・瀬田の攻防戦に出陣した公卿や殿上人は、甲を震いあげて大声で言い放った。
「北条義時の家来!田舎者どもよ!心して聞くがよい。昔より今に至るまで王法に敵対し奉った者で、誰人が安穏だったろうか。小さな犬が師子を吼えてその腹が破れなかったことがなく、修羅が日月を射て、かえってその箭が自らの眼に当たらなかったことはなかった。遠い異国の例はしばらく置いて、近くでは我が朝の代が始まって以来、人王八十余代の間の例を挙げれば、大山の皇子・大石の小丸を始めとして二十余人が王法に敵対し奉ったが、誰一人として反逆の目的を遂げた者はいない。反逆した者どもは皆獄門に首をかけられ、骸(かばね)を山野に曝すこととなったのだ。
関東の武士等、或は源平、或は高家等、先祖相伝の君を捨て奉り、伊豆の国の民たる義時が下知に随ふ故にかゝる災難は出来也。王法に背き奉り、民の下知に随ふ者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北へ馳走するが如し。今生の恥之を何如。急ぎ急ぎ甲を脱ぎ、弓弦をはづして、参れ参れと招きける程に、何に有りけん。申酉の時にも成りしかば、関東の武士等河を馳せ度り、勝ちかゝりて責めし間、京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るる之間、
意訳
関東の武士等、或いは源氏と平氏、或いは家格の高い家々が、先祖の代より相伝えた大君を捨て奉って、伊豆の国の民にすぎない北条義時の下知に従うために、このたびの災難が出来したのだ。王法に背き奉り一介の民の下知に従う者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北へと駆け回っているようなものである。かかる様は今生の恥であり、これを如何とするのか。急ぎ急ぎ甲を脱ぎ、弓弦を外して降参せよ、降参せよ」と招いていたところ、どうしたことだろうか。申酉(さるとり・午後4時から6時頃)の時にもなると、関東の武士等は川をかけ渡り、勝ち誇って攻撃してきたのである。そのため、京都方の武士達は、一人も残らずに山林へと逃げ隠れてしまった。
四王をば四の島へ放ちまいらせ、又高僧・御師・御房達は、或は住房を追はれ、或は恥辱に値ひ給ひて、今まで六十年之間、いまだそのはぢ(恥)をすゝがずとこそ見え候に、今亦彼の僧侶の御弟子達、御祈祷承はられて候げに候あひだ、
意訳
この戦は鎌倉方の勝利となり、4人の王を四つの島へ流罪とし、また、鎌倉方調伏の祈祷を行った高僧・御師・御房達は、或いは住房を追われ、或いは恥辱にあい、そのようなことから今に至るまでの60年の間、未だその恥をすすいでいないと思われるのに、今また、(60年前に祈祷をした)彼の僧侶の弟子達が祈祷を仰せつけられているようだ。
いつもの事なれば、秋風に纔かの水に敵船賊船なんどの破損仕りて候を、大将軍生取たりなんど申し、祈り成就の由を申し候げに候也。又蒙古の大王の頚の参りて候かと問ひ給ふべし。其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず。御存知のためにあらあら申し候也。乃至此の一門の人々にも相触れ給ふべし。
意訳
(弘安の役で)いつもの秋風が吹き、わずかの波浪で多くの蒙古の軍船が破損しただけなのに、(祈祷をしていた僧侶らと世人は)「蒙古の大将軍を生け捕りにした」といい、「祈りが成就した」由を得意気に吹聴しているのである。彼の僧侶や世人の言うように祈りが叶ったということならば、「蒙古の大王の首は届いたのか」と訊ねてみなさい。そのほかの事については、いかに言われたとしても返事をしてはならない。(富木殿は)これらのことについて知っておくべきだと思う故、あらあらお伝えしたのである。以上については、あなただけではなく、一門の人々にも伝え徹底しておきなさい。
又必ずしいぢの四郎が事は承り候ひ畢んぬ。
予既に六十に及び候へば、天台大師の御恩報じ奉らんと仕り候あひだ、みぐるしげに候房をひつつくろい候ときに、さくれう(作料)におろ(下)して候なり。銭四貫をもちて、一閻浮提第一の法華堂を造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし。
意訳
椎地四郎(しいぢの四郎)の事は承知した。
私も既に60に及ぶ歳となったので、天台大師の御恩に報じ奉ろうと思い、見苦しくなった房を改築修繕する費用に富木殿の御供養を下ろして使用させて頂いた。銭四貫を供養して、一閻浮提第一の法華堂を造ったのだと、霊山浄土に御参りになった時は申し上げなさい。
この頃、富木常忍は身延の日蓮のもとに度々、書状を送っていたようです。
特に閏7月15日の書状では「元軍が大風により漂没、敗退したこと。それにより京都で蒙古調伏の祈祷をした思円上人(叡尊・真言律宗の高僧で、その弟子に忍性[良観]がいる)の法験であると評判が高まっていること」などを報告しています。これに対して大聖人は「老病たる之上、又不食気に」と病体で弱っていたため中々返信できなかったのだが、かかる世評は「此の一門の大事也」日蓮一門にとって重大事であり、「惣じて日本国の凶事也」日本国にとっては凶事でもあるとして、「病を忍んで一端是れを申し候はん」そのまま放置していたら一門も、日本国も危機的な事態となると感ずるものがあったのでしょう、病をおして今回のことを解明しよう、とするのです。
「是れ偏に日蓮を失はんとして無ろう事を造り出ださん事兼ねて知る。其の故は日本国の真言宗等の七宗八宗の人々の大科、今に始めざる事也。」と「真言の祈祷により元軍が敗退した」との世評は日蓮を貶める諸宗の策謀なのであり、ここで門下に代筆させて、「且く一を挙げて万を知らしめ奉らん」と密教批判以来度々引用する「承久の乱」を先例に挙げて真言批判を展開、今回の元軍敗退の見方について教示しています。
文中、密教による調伏・祈祷は我が身を損じ、国を滅ぼす例として挙げられる「承久の乱」における宇治川の合戦を中心とした描写は、流麗なる名文といえるのではないでしょうか。
そして「秋風に纔(わず)かの水に敵船賊船なんどの破損仕りて候を、大将軍生取たりなんど申し、祈り成就の由を申し候げに候也。又蒙古の大王の頚の参りて候かと問ひ給ふべし」として、いつもの秋風が吹いた波浪によって蒙古の軍船が破損しただけなのに、「蒙古の大将軍を生け捕りにした」「祈りが成就した」というならば「蒙古の大王の首は届いたのか」と問うべきである、「他のことは論じないように」と富木氏に指南しています。
「大王の首」云々は、対元軍の戦闘が「勝利であると宣言できる基準」となるべきものといえ、どのような事態となっても事象の本質を見抜き喝破する大聖人ならではの指摘ではないでしょうか。
それにしても宇治勢田の攻防戦で、公卿殿上人があらん限りに東国武士団を罵りながらも、形勢逆転で蜘蛛の子を散らすように遁走する様は、いつの時代も繰り返されてきた歴史の常ではないかと思います。
東国武士団恐るべしですね。
林 信男