如是・我慢「旃陀羅について」

投稿者:鬼滅の言

般泥洹経に云く「善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ或は形状醜陋衣服足らず飲食?疎財を求めて利あらず貧賤の家及び邪見の家に生れ或は王難に遇う」等云云(中略) 一には或被軽易二には或形状醜陋三には衣服不足四には飲食麤疎五には求財不利六には生貧賤家七には及邪見家八には或遭王難等云云、此八句は只日蓮一人が身に感ぜり

佐渡御書 御書p.959

秀句に云く「代を語れば則ち像の終り末の始め地を尋ぬれば則ち唐の東羯の西・人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり、経に云く猶多怨嫉・況滅度後・此の言良に以有るなり」等云云

開目抄上 御書p.201

今回は如是・我慢とのタイトルで投稿させていただきます。

ここでいう我慢とは「我意を張ること」という意味で、要は我見です。

私は講義録や教学論文を読み込んだ訳ではありませんし、学術書も読んでいませんので、申し訳ないとは思いますが、私の考えを述べさせていただきます。

日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり

佐渡御書 御書p.958

旃陀羅とは、古代インドの身分制度で、四姓の下に置かれた不可触賤民を指します。

般泥洹経には過去世の悪業によって、今世で受ける八つの報いが説かれています。

伝教大師は法華秀句で、妙法が弘まる時・所・人を説いています。

「此八句は只日蓮一人が身に感ぜり」
「人を原ぬれば則ち五濁の生」

般泥洹経にある八つの報いである「八句」・法華秀句の「五濁の生」それを象徴する言葉として日蓮大聖人は「旃陀羅」を用いられたのではないか?

私はそう思っています。

*現代語訳は省略させていただきます。