承久の乱~一を挙げて万を知らしめ奉らん

神国王御書

又承久の合戦の御時は、天台の座主慈円、仁和寺の御室、三井等の高僧等を相催して日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行われ給う。所謂承久三年辛巳四月十九日に十五檀の法を行わる、天台の座主は一字金輪法等・五月二日は仁和寺の御室・如法愛染明王法を紫宸殿にて行い給う、又六月八日御室・守護経法を行い給う、已上四十一人の高僧・十五壇の大法・此の法を行う事は日本に第二度なり、権の大夫殿は此の事を知り給う事なければ御調伏も行い給はず、又いかに行い給うとも彼の法法・彼の人人にはすぐべからず

意訳

また承久の合戦の時(承久3年・1221年)は、天台の62代座主・慈円、仁和寺の御室の道助入道親王、三井寺等の高僧らを招き集めて、日本国に渡来した密教の大法・秘法を残らず行われたのです。

いわゆる承久三年辛巳(かのとみ)四月十九日には十五壇の大修法が行われた。天台の座主は一字金輪法等を行い、五月二日には仁和寺の御室が如法愛染明王法を紫宸殿で行った。また六月八日にも御室が守護経法を行ったのです。以上、四十一人の高僧が十五壇の大法を修したことは、日本では二度目のことでした。

権大夫殿・北条義時はこの修法のことを知らなかったので、調伏の修法も行いませんでした。また、仮に修法を行ったとしても、朝廷方が集めたほどの高僧、密教の大法や秘法を超えることはできなかったことでしょう。

後に承久の乱と呼ばれるようになる戦乱のとき、朝廷側は密教のありとあらゆる秘法による祈祷を行わせましたが、結果は大敗北。後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ配流されてしまいます。

承久の乱の翌年に生まれ、物心ついてから承久の乱に関心、いや疑問を持った一人の少年。

而るに日蓮此の事を疑いしゆへに、幼少の比より随分に顕密二道並びに諸宗の一切の経を或は人にならい、或は我れと開見し勘へ見て候へば故の候いけるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。(同)

意訳

日蓮はこのこと(檀ノ浦での安徳天皇の最期、承久の乱における三天皇の配流)について疑問を持ったために、幼少の頃から懸命に顕教・密教や諸宗の一切の経教を、あるいは人に学び、あるいは一人で開いて見て考えたところ、その理由があることを知ったのです。自分の顔を見るには明鏡によるべきであり、国土の盛衰を計り知るには仏法の鏡ほどすぐれたものはありません。

何故、あれだけの秘法、祈祷を尽くした側が戦に敗れたのか?

やがて経典世界にその答えを見出だした日蓮大聖人は、ことあるごとに語り、それは人生最晩年まで続きます。

富城入道殿御返事  弘安4年10月

其の故は日本国の真言宗等の七宗八宗の人人の大科今に始めざる事なり。然りと雖も且く一を挙げて万を知らしめ奉らん、去ぬる承久年中に隠岐の法皇義時を失わしめんが為に調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失わしめ畢んぬ、然る間同じき十九日二十日鎌倉中に騒ぎて同じき二十一日・山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す、

意訳

それは日本国の真言宗等の七宗・八宗の人々の大悪事の誤りは、今に始まったことではありません。しかしながら、ここで、一事を挙げて万事をお知らせしましょう。

去る承久三年に隠岐法皇(後鳥羽上皇)が北条義時を討つために、義時の調伏を比叡山の座主・東寺・仁和寺・七寺・園城寺に命ぜられ、同じ三年の五月十五日、鎌倉幕府の代官・伊賀太郎判官光末を京都の六波羅で討ち取らせました。そうする間に、同じ五月十九日、二十日には、その一報が鎌倉に届いて大騒ぎとなり、北条義時は五月二十一日に、東山道・東海道・北陸道の三道から十九万騎の兵を集めて、京都へ向かったのです。

『一を挙げて万を知らしめ奉らん』

歴史上では承久の乱という一つの言葉で表現されることではありましたが、そこから真言の悪法たることを始めとして万を知ることができる。このような物事の捉え方には感嘆します。

「その教え、考えは正しい」と、権力者や万人から信じられるような信仰でも、実はそこには解明すべきことが山となっていた。しかしその正体が判明といいますか、結果が出た時には既に遅かった、ということになります。

承久の乱は端的な例とはいえ、宗教と国家の結びつきは、今日的なテーマでもあります。

承久の乱といえば、日本史のターニングポイント。その中でもど真ん中に位置するのが、かの北条政子の名演説ですね。

『吾妻鏡』承久3年(1221)5月19日

皆、心を一にして奉るべし。これ最期の詞(ことば)なり。故右大将軍(頼朝)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ・大海)よりも深し。報謝の志これ浅からんや。

而(しか)るに今逆臣の讒(ざん)に依って非義の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康・胤義等を討取り三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。

皆の者、心を一つにしてよく聞きなさい、これが私の最後の言葉です。

亡き頼朝殿が朝敵の平家を征伐し、関東に幕府を創設して以降、皆の官位や俸禄は上がり、その恩はまことに山よりも高く、大海よりも深いのです。その恩に報いる志が、どうして浅くてもよいものでありましょうか。

ところが今、逆臣の讒言により、幕府追討という不当な綸旨が下されました。名を惜しむ者は早く藤原秀康・三浦胤義らの逆臣を討ち取って、三代にわたる将軍の恩に報いなさい。ただし、上皇側に付きたいという者は、今すぐ申し出よ。

恩に報いるは今ぞ!

この勢いのまま、東国武士集団が朝廷方を打倒してしまうという、まさに天下の一大事。

もちろん、さじ加減を調整する必要はありますが、今読んでもかきたてられるような名文ではあります。

少年時代の日蓮大聖人が学んだ清澄寺の寺伝では承久年間、北条政子が宝塔・経蔵を寄進し、仏舎利、一切経、涅槃像を安置していますが、権力者との関係を喧伝するのは中世寺院の常ですから、今は参考ということで。

ちなみに2022年、NHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。

北条義時がどのように演じられるのか、期待しています。

                       林 信男