日頂の事跡と、弟子に授与された曼荼羅本尊の安置の態様

富木常忍夫妻の二男・日頂の事跡と、弟子に授与された曼荼羅本尊の安置の態様を確認してみましょう。

文永12年2月7日、富木入道尼御前に報じた「可延定業御書」では、富木氏夫人の病気を聞いた大聖人が平癒を祈念して激励していますが、文末に「大日月天に申しあぐべし。いよどの(伊予殿)もあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり」と、日天月天に平癒を祈っていること、富木夫人の子息・伊与房が病身の母の平癒を願い「自我偈」を読んでいることが記されています。これにより伊予房・日頂は、身延の大聖人のもとにいたことがうかがわれます。

弘安2年11月25日の「富城入道殿御返事」と「富城殿女房尼御前御書」(同日付け)では、大聖人は富木夫人の「御寿命長遠之由天に」祈念し、往年、世話になったことに感謝を捧げています。

そして「さてはえち(越)後房・しもつけ房と申す僧をいよ(伊予)どのにつけて候ぞ。しばらくふびん(不憫)にあたらせ給へと、とき(富木)殿には申させ給。」と、熱原法難の余韻が冷めやらず、越後房日弁・下野房日秀を伊予殿(日頂)につけて下総に向かわせたので、事情を察してしばらく留まらせてほしいと依頼しています。

袖書きには「いよ(伊与)房は学生になりて候ぞ。つねに法門きかせ給候へ。」とあり、富木夫人の子息・伊与房の教学研鑽が進み日蓮一門の学匠へと育ってきているので、法門のことについて常に尋ねていくように促します。

自分の息子から仏法の大事を学ぶ。

母親にとっては成長した我が子の姿にどれほど嬉しかったことでしょうか。

弘安3年11月29日の「富木殿御返事」は冒頭に、「鵞目一結、天台大師の御宝前を荘厳し候ひ了んぬ。」とあるように、富木氏が身延山での「天台大師講」のために銭一結を供養されたことに対する返状です。

薬王菩薩本事品第二十三の「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」、法師品第十の「持経者を歎美せんは其の福復彼れに過ぎん」、湛然の「法華文句記」の「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」、最澄の「依憑天台集」の「讃せん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開く」、更に「法華文句記」の「方便の極位に居る菩薩猶尚第五十の人に及ばず」を引用して法華経の行者供養の功徳と、誹謗する罪を説きます。

続けて富木夫人の病について、「我が身一身の上」のことと思い昼夜を問わず天に平癒を祈願しているとし、富木夫人は「法華経の行者をやしなう事、燈に油をそへ、木の根に土をかさぬるがごとし」という重恩の人なのですから、「日月天其の命にかわり給へと」強く祈願していると励まします。「又をも(思)いわす(忘)るゝ事もやといよ(伊予)房に申しつけて候ぞ。たのもしとをぼしめせ」と、様々な用事で思い忘れるかもしれないので、伊予房・日頂にも祈願に励むよう申しつけているので安心して頂きたい、と記しています。

「しっかり祈っていますが、忙しくて忘れるかもしれないので、あなたの息子にも祈願するように申し付けてあります」大聖人の人間味が感じられる記述だと思います。

弘安期の大聖人の書状には、法華経の行者供養の功徳を教示する記述が増えていますが、収穫の少ない身延の山中であれば弟子檀越の供養が直接的に日蓮一門の生活を支えていたのではないかと思われます。

「私が供養しなければ聖人が生活に窮してしまう」

門下はそれこそ、使命感をもって供養したのではないでしょうか。門下は真心から供養する、師もまた感謝を言葉と文字で表し、大事の法門を教示する。供養の本義を学ぶ思いとなります。

さて、「可延定業御書」(文永12年2月7日)、「富城殿女房尼御前御書」(弘安2年11月25日)、「富木殿御返事」(弘安3年11月29日)の三書により、伊予房・日頂は身延の大聖人のもとにあって法門研鑽に励んでいたこと、身延と下総の往来をしていたことがうかがわれます。

そのような日頂に、弘安元年8月に授与された曼荼羅53の寸法は94.5×52.4㎝ で、3枚継ぎのもの。師匠の側にいた日頂授与の曼荼羅に、「日頂上人授与之」と書かれているのは注目すべきでしょう。身延の草庵で師に仕えている時に奉掲したとは考えづらいものがあり、おそらくは下総国での日頂の法華伝道拠点(日蓮亡き後、日頂は真間弘法寺に入ると伝えるところから、それは真間かその周辺かもしれません)に奉掲されたものではないでしょうか。大聖人は膝下にいた弟子・日頂に曼荼羅を直接授け、そこには授与書きが記されていました。しかも、その曼荼羅は日頂の伝道拠点となる堂舎等に奉掲されたと考えられるのです。

「法華伝道拠点に掲げられた曼荼羅に授与書きはある」ということは、他の弟子に授与された曼荼羅からも理解できます。

日興上人の富士方面での活発なる法華勧奨活動により、富士熱原郷下方の天台宗・滝泉寺の住僧である日秀・日弁・日禅らが日蓮一門となり、彼らに関係する地元の農民らも多数が法華経を信仰するに至りました。同地での、一門による活発な布教活動が滝泉寺院主代・平左近入道行智らとの軋轢を生み、それが沸騰点に達して弘安2年秋の熱原法難へと至るのですが、法華伝道が活発化していた弘安2年4月、大聖人は越後房日弁に曼荼羅を授与しています。

「御本尊集」の曼荼羅63がそれで、当時の日弁の動向からすれば、熱原と周辺での法華伝道拠点に奉掲した、また農民らを教化する際には持ち歩いて布教の現場でも掲示(樹木に掛ける等)したのではないでしょうか。曼荼羅63には「比丘日弁授与之」と授与書きがあり、寸法については日頂に授与した曼荼羅53の94.5×52.4㎝ よりやや大きめの100.0×53.0㎝で、共に3枚継ぎとなっています。法華伝道拠点に奉掲する曼荼羅の寸法は、縦横100.0×53.0㎝前後が平均値だったでしょうか。これらは堂舎、持仏堂、邸宅のみならず、農民らを集めて集会・布教する屋外などでも掲示されたことがあったのではないかと思われます。

それにしても、日頂授与曼荼羅の「日頂上人授与之」に見られるように、師匠が弟子に「上人」号を授けるところに、「弟子の大成を願う師匠の心」を感じますし、『どこまでも人を信じて教導、その成長のために尽くすところに日蓮大聖人の仏法の本義がある』と学ぶ思いとなるのです。

                       林 信男