曼荼羅本尊~日蓮法華の信仰世界
日蓮大聖人が『仏滅度後二千二百二(三)十余年之間 一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也』として顕した曼荼羅本尊、即ち大御本尊。
大聖人の教示では、「今末法は~此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり」(御講聞書・弘安元年3月19日~弘安3年5月28日)と、末法万年の衆生はこの本尊を拝して成仏しゆくのですが、本尊中央に南無妙法蓮華経と日蓮を認めたことは即、帰命の対象たる衆生救済の『人法』を顕したものであり、それは大聖人自らが教主であることを意味することでもあります。
『意味することでもあります』というのは、大聖人自らが弟子檀越への書状で誰人にも分かるように「教主」と称したことはなく、それは「曼荼羅本尊を拝したならば、いかなる法により、いかなる人により成仏を期するのか、我が意を察しなさい」と本尊の相貌に大聖人の心が留められていると拝察できるからです。
大聖人は曼荼羅を図顕することにより、信仰世界では弟子檀越を虚空会に連ならせ、現実世界には『我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり』(如来寿量品第十六、以下同)である久遠の本仏『南無妙法蓮華経 日蓮』が『我常に此の娑婆世界に在って説法教化す』る姿を曼荼羅として顕し、そこに『我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり』の日蓮法華の信仰世界を創り上げたのではないでしょうか。
大御本尊を拝するほどに、十の言葉、百の言葉でも表しきれない、心耕されるものがあると思うのです。
そのような観点から日蓮大聖人の現存真蹟曼荼羅を拝すると、多くの讃文に経典が書き込まれている意味が見えてくるように思います。
・譬喩品第三
今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処
多諸患難 唯我一人 能為救護
・法師品第十
若於一劫中 常懐不善心 作色而罵仏 獲無量重罪
・安楽行品第十四
一切世間 多怨難信 先所未説 而今説之
・如来寿量品第十六
余失心者 見其父来 雖亦歓喜 問訊 求索治病 然与其薬 而不肯服
・法華玄義釈籤
已今 当妙於茲固迷 舌爛不止猶為華報 謗法之罪苦流長劫
・法華文句記
若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号
・止観輔行伝弘決
当知身土一念三千 故成道時称此本理一身一念遍於法界
・依憑天台集
讃者積福於安明 謗者開罪於無間
このように曼荼羅に書き込まれた様々な讃文・経文は、本尊を授与される相手に応じて、久遠の本仏『南無妙法蓮華経 日蓮』が対機説法をする様相を示しているように見えます。
日蓮大聖人の曼荼羅は『苦海に没在』する衆生をして『渇仰を生ぜ』しめ、『恋慕』の心を起こさせるものであり、『三千大千世界』を舞台としてこれからも続くであろう、『無量無辺百千万億那由佗阿僧祇劫』の旅への力を与えてくれる、無上の宝珠であると思うのです。
林 信男