青年日蓮の念仏者時代、そして法然浄土教批判へ

日蓮大聖人の仏法を学んでいて気がつくのは、

1)『それまで信じ学んでいた信仰対象であっても、誤りであると判断すれば躊躇なく破折対象となる』

2)『破折行為に対する周囲の評価には左右されずに、発心当初の志のままに生き抜く』

3)『仏法上の一凶、悪として主たる批判対象とされるのは永続的に固定ということはなく、時により、社会状況により変遷していく(もちろん、従来より批判対象となっていた一凶への破折も変わらないが)』

ということです。

3)については、立教からしばらくは「立正安国論」の一凶が意味するように、法然浄土教が主な破折の対象でしたが、文永8年の法難、竜口の虎口を脱して以降、即ち曼荼羅本尊図顕が始まる頃からは密教への破折が増えていくことから理解できます。

蒙古襲来前夜の緊張に満ちる鎌倉や京に聞こえるのは、異国調伏の祈祷をなす密教の音声であり、その音量が増すほどに大聖人の密教破折の度は増していきます。身延入山後に書写された「立正安国論」いわゆる「建治の広本」には、北条時頼を諫暁した時にはなかった真言批判が書き加えられていることからも理解できると思います。

ここでは1)のケース、青年日蓮の念仏者時代に焦点を当てて考えてみましょう。

日蓮大聖人は「立教する以前、青年時代に世の大多数の人に連なって念仏を唱えた」と述懐しています。

四条金吾殿御返事

而るに日蓮は法華経の行者にもあらず、僧侶の数にも入らず。然而して世の人に随って阿弥陀の名号を持ちしほどに

「佐渡御書」(文永9年3月20日)の「日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば、今生に念仏者にて数年が間、法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑ひしなり」との、「自己の念仏者時代に法華経の行者を嘲笑した」という記述と「師僧・道善房が念仏者であった」ことを併せ考えると、出家後の青年日蓮が学習したのは天台(台密)と共に浄土教でもあったことが理解できます。このことは当時の比叡山がそうであったように、「延暦寺横川系の寺院」とされる清澄寺もやはり、諸宗兼学の道場であったことを示すものだと思います。

大聖人が「善無畏三蔵抄」で記述しているように、道善房は阿弥陀仏を五体作るほどの熱心な念仏者でした。

善無畏三蔵抄

文永元年十一月十四日、西条華房の僧坊にして見参に入りし時、彼の人の云はく、我智慧なければ請用の望もなし、年老ひていらへなければ念仏の名僧をも立てず。世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり。又、我が心より起こらざれども事の縁有りて、阿弥陀仏を五体まで作り奉る。是又過去の宿習なるべし。此の科に依って地獄に堕つべきや等云云。

青年日蓮は、このような師匠の勧めにより念仏を唱えたのでしょう。浄土教を学び念仏を唱えた若き日の日蓮は、何をどう感じたのでしょうか。

その後の法然と「選択本願念仏集」を主な対象とした激しい浄土教批判からすれば、比叡山が浄土教を受用することにより伝教・義真・慈覚・智証以来の「聖教」と「仏像」は、「浄土三部の外に経無く」「仏は弥陀三尊の外に仏無し」(立正安国論)となってしまい叡山は浄土教に覆われ、法華一乗の根本宗義が薄らいで衰微の一途をたどったと、立教前夜には認識していたのでしょう。

私達が学ぶ思いとなるのは、青年日蓮は法然浄土教に感情的に反発したという次元ではなく、浄土関係の典籍を学びに学んだ上での批判展開であったということです。

大聖人の浄土教・経論の認識は「浄土三部経」はもとより、「般舟三昧経」「十住毘婆沙論」「浄土論註」「安楽集」「観無量寿経疏(観経疏)」「観念法門」「往生礼賛」「般舟讃」「往生要集」「往生拾因」「往生講式」「選択本願念仏集」等であり、これらが御書に記されています。浄土教に対する原点からの認識・理解が深まるにつれ、大聖人は法華経(涅槃経)に依って立つ思いを固め、立教以降の激しい浄土教批判の展開になったのだと考えるのです。

そのような大聖人の、法然浄土教への批判的意識が端的に示されているのが、「立正安国論」の「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」との念仏禁断の主張だと思います。

尚、大聖人は立教の前後のみならず、建治期に至っても浄土教批判の為の準備を進めており、慧遠の「無量寿経義記・疏」、元照の「仏説阿弥陀義疏」の要文を記した建治2年頃とされる「要文雙紙」が現存しています。

『学び理解し実践した上で「これは違う、おかしい」と判断した時から批判は始まり、それは求道と志を根底とするものであれば、批判は同時に創造作業ともなる』

日蓮大聖人の仏法から得るものは、学び実践するだけ増えて拡大していくように思います。

林 信男