末法の教主~竜口法難をめぐって

日蓮大聖人は何故、「教主釈尊が衣で覆い守ってくれた」と受け止めたのだろうか?

文永8年の法難で、日蓮大聖人は竜口で斬首されるところだったのですが、突然現れた光ものにより処刑は中止となりました。そのことを翌年の「真言諸宗違目」(文永9年5月)で次のように記すのです。

日蓮が流罪されれば、教主釈尊は衣をもってこれを覆ってくださっているであろう。去年の 9 月 12 日の夜中に、虎口をのがれたのはこのためであろう。妙楽大師の止観輔行伝弘決に「かならず心が堅固であるならば、諸天善神の守護は強い」等とあるのはこのことである。

光ものにより中断された処刑を、「日蓮流罪に当れば教主釈尊衣を以て之を覆いたまわんか、去年九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか」(同)とするのです。

「教主釈尊が衣を以て覆い守る」とはどういう意味なのかが素朴な疑問だったのですが、実はここに末法の教主交替の意味(物語ともいえるでしょうか)があったのではないかと思うのです。

このことは、2021年9月の座談会御書「四条金吾殿御返事」を研鑽していて気が付いたことなのですが、以下、簡潔にまとめます。

まずは竜口法難の描写ですが、「種種御振舞御書」よりの意訳です。

由比の浜に出て御霊社の前にさしかかったとき、また「殿方、しばらくお待ちなさい。ここに知らせるべき人がいます」といって、中務三郎左衛門尉(四条中務三郎左衛門尉頼基)という者のところへ熊王という童子を遣わしたところ、彼は急いで出てきた。

「今夜首を斬られに行くのである。この数年の間願ってきたことはこれである。この娑婆世界において、雉となったときは鷹につかまれ、鼠となったときは猫に食われた、あるときは妻子の敵のために身を失ったことは大地微塵の数よりも多い、ですが、法華経のためには、ただの一度も命を失うことがありませんでした。そのために日蓮は貧しい僧侶の身と生まれて、父母への孝養も思うようにまかせず、国の恩を報ずべき力もありません。今度こそ、首を法華経に奉ってその功徳を父母に回向しましょう、その余りは弟子檀那に分けようと申してきたのはこれである」といったところ、左衛門尉の兄弟四人は馬の口に取りついて御供をし、腰越・竜の口に向かった。

首を斬るのはここであろうと思っていたところ、案に違わず、兵士どもが騒ぎだしたので、左衛門尉が「今が最期でございます」といって泣いた。日蓮はそれをさとして、「不覚な殿方である。これほどの悦びを笑いなさい、どうして約束を違えられるのか」といったとき、江の島の方向から月のように光った物が、鞠のように東南の方から西北の方へと光り渡った。十二日の夜、明け前の暗がりで人の顔も見えなかったが、光ものによって月夜のようになり人々の顔も皆見えた。

太刀取りは目がくらんで倒れ臥してしまい、兵士共は恐れおののいて一町ばかり走り逃げる者もあり、ある者は馬から下りてかしこまり、また馬の上でうずくまっている者もある。日蓮は「どうされた、殿方。これほどの大罪ある召捕人から遠のくのか、近くへ寄りなさい、寄りなさい」と声高々に呼びかけたが急ぎ寄る者もない。「こうして夜が明けてしまったならばどうするのか、首を斬るなら早く斬りなさい。夜が明けてしまえば見苦しいではありませんか」とすすめたけれどもなんの返事もなかった。

処刑しようとした瞬間に現れた光ものは、今日では火球、彗星等の解説がありますが、やはり、この日、この時、この瞬間に現れたのが気になるところです。

日蓮大聖人は竜口の刑場に向かう道中、鎌倉の鶴岡八幡宮寺で馬からおりて、八幡大菩薩を諌暁していました。有名な八幡社頭の諫言です。

種種御振舞御書

八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて、馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か

「日蓮が法門」では、その八幡大菩薩は垂迹にして本地は釈尊であり、大聖人は常々、そのことを教示されていました。

日眼女造立釈迦仏供養事

天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり

ということは、八幡社頭の諫言は、眼前には八幡大菩薩に対するものでしたが、その本地では釈尊に対する叱咤でもあったわけです。

続いて竜口へと至るわけですが、我が身命がまさに終わろうとする時に突然現れた光ものに、日蓮大聖人は「諌暁によって呼び出された釈尊の働き」を見たのではないでしょうか。それを記したのが「真言諸宗違目」の、「日蓮流罪に当れば教主釈尊衣を以て之を覆いたまわんか、去年九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか」であったと考えるのです。

この時に、処刑人が斬ろうとしても切れない自己が末法の教主であり、光ものとなって現れた釈尊が脇士たることを覚知したのではないでしょうか。この瞬間が、導師日蓮から末法の教主日蓮への悟達のときだったのでしょう。

それがかたちとして顕されたのが、法難の翌月から初めて図顕されるようになった曼荼羅本尊であり、「南無妙法蓮華経 日蓮」という人法の向かって左側に、釈尊は脇士として配列されるようになります。

それを文の表に顕したのが「観心本尊抄」であり、

此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。

と明確に、釈尊は脇士たることが示されています。

なお、京都要法寺に所蔵される日興上人の写本では「ナリテ」とルビが振られているとのことであり(「興風」15号の山上弘道氏の論考「日蓮大聖人の思想(五)」での教示)、その場合は、

此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊は脇士と為(な)りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。

と読めば、やはり、釈尊が脇士たることは明瞭ではないでしょうか。

以上、日蓮本仏論としての高度な解釈論ではなく、素朴な観点からのまとめでした。

                        林 信男