座談会御書 持妙法華問答抄 2022年(令和4年)1月度

御書

持妙法華問答抄
新版御書 519㌻2行目~7行目
御書全集 467㌻16行目~18行目

〈本 文〉

寂光(じゃっこう)の都(みやこ)ならずば、いずくも皆(みな)苦なるべし。本覚(ほんがく)の栖(すみか)を離れて、何事か楽しみなるべき。願わくは「現世(げんせ)安穏(あんのん)・後生(ごしょう)善処(ぜんしょ)」の妙法を持(たも)つのみこそ、ただ今生(こんじょう)の名聞(みょうもん)、後世(ごせ)の弄引(ろういん)なるべけれ。すべからく、心を一(いつ)にして南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧(すす)めんのみこそ、今生人界の思い出なるべき。

〈現代・意訳〉

(真実の宗教を持ち自分自身が)「絶対的幸福境涯(寂光の都)」を体得しなければ、どこに居ても苦しみの境涯から抜け出すことはできません。人間に本来等しく備わっている「仏の悟りの境涯(本覚の栖)」を体得せずして、一体何が楽しみというのでしょうか。願わくは「現世は安穏であり、後生は善き処に生まれる」と仰せの妙法を受持することのみが、ただ今生の「名誉」であり、後の世には「成仏の手引き」となるのです。ぜひとも、心を定めて「南無妙法蓮華経」と我も唱え、友人・知人に信心を勧めることこそ、人生最高の思い出となるのです。

〈講 義〉

それでは皆さんと共に「持妙法華問答抄」を学んでいきたいと思います。
はじめに、本抄の執筆の年代時期ですが、これには諸説あります。
一つは、弘長3年、大聖人が42歳の時、伊豆流罪の赦免後に鎌倉でしたためられたものとする説と、二つめは、古来の伝承で六老僧の一人である「日持」が本抄を執筆し、それを大聖人が御印可されたとするものです。
さらに、建治2年説、弘安3年説と諸説ありますが、本抄は大聖人の真蹟正本が残っていないため、その真偽を決定することはできず、いずれの説も対告衆は不明です。
今回は学術的な系年問題は横に置いて、学会の新旧御書は「弘長3年説」を採用しているので、これに準じて話を進めていきたいと思います。
本抄は題号の示すように、「法華経を受持する」ことについて、5つの問答形式を用いて論が展開されています。
大聖人の書状を読む時にいつも感じることなのですが、大聖人が人に向けて絶対的確信ある自説を語る時は、決して威圧的に「絶対を絶対として説かない」という配慮です。
つまり、大聖人が絶対的確信ある自説を語るときは、必ず何かと何かを相対して絶対を説き、時には対話形式の「問答」という形をとって、誰もが納得する形式を用いて自説を主張しています。
この大聖人の「文章形式」一つを見ても、実に大聖人の人柄が表れていると言えます。
大聖人からすれば「絶対的確信のある自説」だとしても、それをただ威圧的に語るのではなく、あくまでも「問い・質問」という対話を用いて語り、相手が反論すれば、文証を引き、理を尽くして語ろうとする大聖人の態度は、人間として謙虚な姿勢であり、人に対しては誠実な態度だと思います。
今回学ぶ、本抄冒頭の質問者の「問い」を見ても、
「受けがたき人身を受け、人間として生まれることができたうえに、聞きがたき仏法を聞くことができた。ところが、仏法にも教えの高低浅深があり、人間の機根にも高い低いがあるという。いったいどのような法を修行すれば、すみやかに仏になるのであろうか。願わくは、その道を聞きたいと思う」――という質問者の仏法を求める誠実な姿勢が描かれています。
この「持妙法華問答抄」の冒頭を読むだけで、今の原田学会がいかに狂っているかが分かります。仏法の道理を会員に教える立場であるはずの幹部は、「組織の教えや方針には黙って従え」と上から威圧的な態度をとる幹部が多く、会員は会員で「教学は勉強している人が教えて当然だ」と決め込む傲慢な態度―自らが苦労し、努力して勉強をしようともせず、ただ漫然と講義を聞くだけで信心が体得できると思っている横着な姿。
これでは「御書根本」「三代根本」「師弟不二」という言葉はあっても、内実が伴っていないと思います。やはり、教える側も、教わる側も、大聖人が示されているような、相手の意見を尊重し、間違いがあれば理を尽くして説明し、誠意をもって対話していく姿勢が大切なのではないかと思います。
さて、本抄冒頭にある「いったいどのような法を修行すれば、すみやかに仏になるのであろうか。願わくは、その道を聞きたいと思う」という質問は、本抄全体に流れるテーマであり、信仰する私たちにとっては最重要の根本的な問題です。またそれが教学を学ぶ目的でもあります。
本抄全体の大意は、まず「成仏得道の法」は仏の極説である法華経に限ることが示されます。そして法華経を受持する心得とは、あくまでも「信心」が最も重要であり、成仏のカギは「受持即観心」つまり、受持が即信心修行にあたることを教えています。
次に、法華経を受持する実践者を誹謗する罪は重いことを明かすとともに、法華経を受持し、題目を唱えて成仏すべきことを勧めて本抄が結ばれています。

今回学ぶ御文は、その最後の結論部分です。
「(真実の宗教を持ち自分自身が)「絶対的幸福境涯(寂光の都)」を体得しなければ、どこに居ても苦しみの境涯から抜け出すことはできません。人間に本来等しく備わっている「仏の悟りの境涯(本覚の栖)」を体得せずして、一体何が楽しみというのでしょうか。願わくは「現世は安穏であり、後生は善き処に生まれる」と仰せの妙法を受持することのみが、ただ今生の「名誉」であり、後の世には「成仏の手引き」となるのです。ぜひとも、心を定めて「南無妙法蓮華経」と我も唱え、友人・知人に信心を勧めることこそ、人生最高の思い出となるのです。 」

この御文は、人生において何が最も重要であるかを述べられた一節です。
「寂光の都」「本覚の栖」とは、私たちに置き換えれば、絶対的幸福境涯を我が胸中に確立して、人生を生きる心の状態という意味になるでしょうか。
そのような「自立した自分自身を確立せずして真実の幸福はない」というのが、大聖人の智慧であり、大聖人の成仏観です。
大聖人の目指した目的、また幸福観は、決して「巨大な寺院を建て、多くの弟子をかかえ、世間に認めさせる」という、いわゆる相対的幸福境涯を目指したのではありません。
なぜなら、相対的な環境に支配された幸福では、どうしても環境の変化によって幸不幸が左右されてしまうからです。
人生の幸不幸は「生老病死」の中に顕れるというのが仏教本来の見方であり、それは誰人も逃れることはできません。
いくら「俺はイケメンだから女性にモテモテ」と言ったって、あと50年も経てば、ただの「ジジイ」です。事業で財を築いたとしても、この「コロナ過」で倒産した事業家はたくさんいます。またいくら健康に留意して生きていても、年を取れば病気にもなるし、健康な人でもやがては死を迎えます。
このように、環境の変化によって幸不幸が決まってしまう相対的幸福境涯では、真実の成仏観を体得したとは言えないというのが大聖人の結論です。
煩悩や迷妄に苦しむ生命も、菩提や証悟に歓喜する生命も、本来は一つのものであり、九界の凡夫も、仏界の仏も、ともに妙法蓮華経の当体の顕れであることを説き尽くしたのが「法華経」であり、大聖人の仏法です。
ではなぜ、法華経でなければダメなのかというと、
釈尊は、爾前経において「六道流転(輪廻)」―つまり、不幸の原因は「我が所有」に執着する「無明」にあると教えます。そして、自分だけのものなど本来「無い」のだという自覚に立つべきことを強調し「無我」の教えを説きました。  
その教えを知った弟子たちは、みずからの「執着」と戦い、煩悩を屈服させ、苦しみの原因を根源から絶たなければなりません。
しかし、煩悩は生命の奥深いところにあって、しかも力強い存在でもありますから、その煩悩との戦いは熾烈をきわめることは必定です。
釈尊はその筆舌に尽くせぬ仏道修行を重ねることによってこそ、それが成就すると説いたのです。これが爾前経に示されている歴劫修行です。しかし、そこに新たな問題が生じます。
確かに煩悩が不幸をもたらす元凶であることは間違いありませんが、それと同時に煩悩は生きようとする一種の生命エネルギーであることもまた事実です。
煩悩と対決しようとすればするほど、生きようとするエネルギーと対決しなければならない。物を欲するという煩悩は、生をたもとうとする生命の本能であり、それを抑えることは生を抑圧する以外の何ものでもありません。
資源の豊富な土地に魅了され、そこで食を欲する煩悩によって、戦争という悲惨な苦しみの「結果」を人類が経験してきたのも事実ですが、食を断とうとすることは、生そのものの否定を目指していることになります。
しかし、それは現実には出来ないことですから、もしそれを強行すれば、みずからの命を絶つしか方法はありません。
こうなってくると、小乗教の修行では必然的にこの世に生まれることを拒否し、灰身滅智という、心だけでなく肉体の制約からも完全に離れた理想の世界という結論にならざるを得ないのです。そこに小乗教の限界があります。
一方、大乗教では「凡夫も仏に成れる」と教えていますが、それでもその煩悩との対決を終え、仏と同じ境地に立つには歴劫修行をしなければならないとすることにおいては小乗教とさほど変わりません。
そうすると、これまでは「幸福は不幸を無くしたところにある」と考えてきたが、それがはたして本当の幸福だったのだろうか。もし、違うというなら「真実の幸福」をもたらすものとは一体何なのか――。小乗教・大乗教の教えを突き詰めて考えていけば、結局そういう結論にならざるを得ないのです。
ところが法華経は、そのような「煩悩」に対する考え方を180度転換します。それが「煩悩即菩提」と言う法理です。無明という「煩悩」の対極にあるのは「智慧」です。
その智慧とは何かと言うと「よりよく生きようとする」人間が本来もっている生命エネルギーのことです。
人はなるべく楽をして生きようとします。わざわざ苦労して獲物を追いかけるより「牛・豚・鳥」などを飼って、いつでも食べられるようにしておいた方が楽だし、飢える心配もありません。また畑を耕して生活する方が、確実に食料を手に入れることができます。
このように、人間は「煩悩」があるゆえに文明を発展させてきたのですが、そこに「煩悩」が「智慧」へと昇華されてきた姿を見ることができます。
要するに、いかに不幸を生み出す「煩悩」から、幸福を生み出す「智慧」へと転換させるのかという問題なのです。
先ほども、成仏のカギは「受持即観心」にこそあると言いましたが、仏法でいう観心が、単に自分の心がいかなるものかを認識し、自己満足するためだけにあるのではないことは明らかです。では、観心を行ずるのは一体何のためかと言うと、あくまでも宇宙の森羅万象という諸法と自分の生命との関係を深く知り、その上でいかなる「生き方」をすべきかという「智慧(菩提)」を求めるためなのです。
「生老病死」に顕れる人生の幸不幸に翻弄されることなく、相対的幸福境涯から脱するには、心を定めて「南無妙法蓮華経」と唱え、環境を支配して、自身をコントロールできる強靭な自己を確立する以外にないというのが、今回学ぶ御文の骨子であり、その生き方にこそ、最高の名誉があり、楽しい人生だったと「誇り」を持てる人生が歩めるのではないかと思います。
最後にもう一度、本文の意訳を読んで終わります。
――(真実の宗教を持ち、自分自身が)「絶対的幸福境涯」を体得しなければ、どこに居ても苦しみの境涯から抜け出すことはできません。人間に本来等しく備わっている「仏の悟りの境涯」を体得せずして、一体何が楽しみというのでしょうか。願わくは「現世は安穏であり、後生は善き処に生まれる」と仰せの妙法を受持することのみが、ただ今生の「名誉」であり、後の世には「成仏の手引き」となるのです。ぜひとも、心を定めて「南無妙法蓮華経」と我も唱え、友人・知人に信心を勧めることこそ、人生最高の思い出となるのです――――との大聖人の御金言を決して疑わず、何があっても信じ抜いて、今年も大いに題目を唱えながら、前進していきましょう。
以上です。

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 随筆 新・人間革命2 「SGI]の出発

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 IBL第1回世界平和会議「中道哲学こそ平和の基調」