「既に法門・日本国にひろまりて候」の意味は

千日尼御返事 弘安3年(1280)7月2日

其の子藤九郎守綱は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて、去年は七月二日、父の舎利(しゃり)を頸に懸け、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登りて法華経の道場に此をおさめ、今年は又七月一日身延山に登りて慈父のはか(墓)を拝見す。子にすぎたる財なし、子にすぎたる財なし

佐渡の日蓮大聖人をお守りした阿仏房・千日尼夫妻。

日蓮大聖人の身延入山後、佐渡より遙々と、何度も身延を訪れた夫の阿仏房。

その阿仏房も弘安2年春に亡くなり、同年夏、息子の藤九郎守綱が父の遺骨を携えて身延を訪れ納骨します。

翌弘安3年7月1日、藤九郎守綱は再び身延を訪れ、父の墓参りに。帰途につく守綱に、大聖人は母親宛の書状を持たせます。

それが「千日尼御返事」ですが、追伸に「既に法門・日本国にひろまりて候」とあるのには目がとまります。

日蓮大聖人の思考では「すでに法華経の法門は日本国に弘まった」即ち、日蓮が法門・妙法は日本国に流布したとされているのです。

日蓮一門の実数は数百、または三千とも六千とも推測されますが、当時の人口はおよそ七百五十万~八百万でしょうか。いずれにしても日本国の人口からすればわずかな数の日蓮一門であることは間違いありませんが、それでも「既に法門・日本国にひろまりて候」なのです。

ということは、妙法が流布するのは人数の多寡ではないということ。東日本の一部であったとしても、広く行き渡ることを以て「ひろまりて候」なのだと拝察します。

また、それは同時に、日蓮その人の眼には、一閻浮提広宣流布の光景が見えていたということでもあるのでしょう。

                                       林 信男