企画「質問会」 自活の友の質問に答える

多くの方から寄せられた質問を、12月度オンライン座談会において、企画「質問会」として発表しました。
ここにその内容を全文掲載いたします。

自活について

Q そもそも自活とは何ですか?

A 自発能動の活動で、「先生と共に生きる信仰」です。
  言われて動くだけではなく、師匠と同じく、自らが広宣流布の責任者として自発能動の活動をす
  ることです。

Q 幹部の指導を受けずに勝手にやっていいのですか?
A 時が止まらないのと同じく、人間の思考も止まりません。始まったばかりのものごとは、表面的
  には勝手に見えることでしょう。
  御書と先生の指導を基軸に自身の環境に合わせ、自らの発想で行動をしていきます。

Q それは要するに、我見、我がまま、身勝手ではありませんか。
A ある意味、我見の大将が日蓮大聖人です。それまでの天台宗の枠内や、比叡山・天台宗の改革運
  動の粋でとどまっていたら、日蓮大聖人の仏は生まれませんでした。
  私たちは「日蓮がごとく」で大聖人に直結です。
  牧口、戸田、池田の創価三代も、日蓮正宗宗門とは一線を画して独自路線で活動を始めました。
  その心に連なる活動が自活です。

Q そもそも、先生は自活なんて認めていません。
A 師匠の心の継承、師匠の思いを広く社会に開いていく活動は師匠の思いに連なるものです。
  認めてもらう、認めてもらえないという次元を超越し、弟子としていかに師弟の道を進むのか
  という大いなる選択が自活です。自ら考え、ある時は悩み、ある時は揚々と前へと進む活動で
  す。

Q それは身勝手というものではないでしょうか。
A 既存の枠内の思考とそれによる活動を永遠に続けていくだけでは、時代の衆生の機根をとらえた
  信仰の進化も深化(じんか)もありません。精神世界の進化と深化には、表面的な人間の振る舞い
  論だけではくくり切れないものがあります。個々が一念に億劫の辛労を尽くし、成仏(=永遠の
  喜びの私)を目指す取り組みです。

Q 理由や理屈をつけて、学会活動をしないということは、先生の世界とは無縁ということだと思い
  ます。
A 先生の世界というのは、何をやっている、何をやっていないで決められるものではありません。
  信仰をしていなくても、先生を慕いその心に触れていこうとする方がいるのと同様、信仰の在り
  方、信仰のかたちを庶民大衆が模索して師匠の心に迫ろう、継承しようと進みゆくのも、新しい
 「時の到来」であり、そこに先生の世界があると確信します。
  組織活動をやる、やらないの次元ではなく、御書と先生の指導に基づいた、もう一歩上の認識で
  進む活動です。

Q そうはいっても、なんだかんだと言って、学会活動をやらない人たちのわがままな言い分だと
  思います。
A そもそも学会活動とは何でしょうか。
  選挙支援、新聞啓蒙、財務の推進を学会活動としてやってきたのは、「先生とともに」「先生に
  使っていただくため」「先生の思いをみんなに届けよう」との誠意と真心で活動に励んできたの
  です。それが今の打ち出し、方針、体質では感じられなくなりました。故に自立して、私達の手
  づくりで再生と創造に挑戦しています。

Q 聞こえはいいようですが、結局は、学会から離れた異流義ではありませんか。
A ものごとの始まりは皆、一見するだけでは異流義です。日蓮大聖人は天台宗からの自立、心の
  離山というべきでしょう。日興上人は天台寺院で養われ学びながら、天台宗と相対して破折し
  ました。日蓮大聖人・日興上人直結の活動です。

Q ああいえばこういう、そこまで慢心が強いのは増上慢であり、除名になって当然でしょう。
A 除名も何も関係ありません。
  日蓮正宗から破門されたとき、その瞬間で何か変わりましたか?
  なんの変化もなし。むしろ、「さあ、自由だ、破折するぞ」と意気軒高だったでしょう。
  それと同じく、「本物の信仰」には組織内のいわゆる処分などなんの関係もありません。
  そのような処分を云々する方が、仏法を私物化する増上慢というべきでしょう。

Q 結局はバカに付ける薬はない、ということになりますね。
A 上から目線では、先生が指摘された邪教であることの証明になってしまいます。
  私が誤りだと思われるなら、今一度、立正安国論を読み、主人の姿勢に学んで堂々と破折する事
  が正しい信仰ではないでしょうか。

Q 創価学会から離れるのは、池田先生から離れるのと同じでことです。師匠敵対ではありません
  か。
A 師匠が信濃町にいるから正しいとは限りません。師匠の言葉と思いを継承するところに師匠の心
  があります。日蓮大聖人が晩年の九ヶ年居住し、遺骨があるから身延の日向一門が正しいとは限
  らないのと同じです。

Q 幹部の指導をしっかり受けて、我見、慢心を排して、打ち出しを愚直にやっていくのが正しい信
  心です。
A ご住職の指導を受けたのか!と云々していた30年前の宗派のようですね。
  「宿命転換と聞いて入会したのに、選挙、新聞、財務という新たな宿命を背負い込んだ」と、
  知人が嘆いていたのを思い出しました。

Q 要するに活動しなきゃいけないのです。みんな必死になってやっているのですよ。活動したくな
  い連中がぐだぐだ言うのは地獄行きです!
A 自活は自発能動の活動です。いわゆる縦線か横線の違いであり、活動には変わりありません。

Q 選挙、新聞、財務は先生の時代からであり、未来までも変わることなき活動の骨格です。
A 先生こそ、「でなければならない」ということにこだわらない、大いなる境涯の方です。
  原点を継承し、未来を展望する自活の取り組みこそ、不純物、添加物なしの師匠直結の活動で
  す。

信仰について

Q そもそも「仏教の目的」とは何ですか。
A 十人十色の答えがあります。
  私も色々な言葉が浮かびますが、目的という次元から言えば、「一切衆生皆成仏道」に尽きる
  と思います。別の言葉でいえば、『求道と実践により得られた胸中の大いなるものを皆と分か
  ち合いたい』といえるでしょうか。その実践に菩薩道が、また仏の道があるのではないでしょ
  うか。『夫れ法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり(阿仏房尼御前御返事)

Q では、仏とはどのような存在ですか。
A 法華経信仰圏で仏と言えば久遠の仏です。法華経(大乗経典)とは、初めの覚者に連なるその時代
  の覚者により創られ継承されてきた、大いなる慈悲の音声の集積ではないでしょうか。即ち教主
  に連なりし、その時代の覚者の心の結晶が法華経を始めとした大乗経典だと思うのです。
  久遠実成の本仏(久遠仏)とは、法華経成立、展開の歩みの中で、覚者たちにより覚り出(いだ)さ
  れた、人間の思考の彼方にある(人間の思考で成せる領域の内外)大いなる法・大いなる理想の人
  格が融合した大いなる力そのもの。それは祈る人、願う人、求める人の胸中にいる教主でもあり
  ます。
  これは法華経の経文からの解釈でもありますが、末法今日の法華経信仰は即ち、日蓮大聖人に
  よって覚知された妙法の信仰であり、その教主=本仏は日蓮大聖人であります。

Q 経典には、唱題により成仏できるという文証はありません。
A そのとおりです。がしかし、宗教とは思考する人間による精神の創造作業でもある故、「これで
  終わり」というものはなく、「信仰のかたち」は変化を続けます。
  日蓮大聖人は「法華経の極理」(御講聞書)を「南無妙法蓮華経是なり」(同)とし、「一切の功徳
  法門・釈尊の因行果徳の二法・三世十方の諸仏の修因感果・法華経の文文句句の功徳」(同)要す
  るに、法華経世界の一切を「取り聚めて此の南無妙法蓮華経と成し給えり」(同)と意義付けまし
  た。そして「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり~
  妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり」と、「末法一万年の一切
  衆生成仏の法」とされたのです。

Q では、唱題によって成仏できるとして、題目に力があるのか、それとも本尊に力があるのか。
  本尊に力があるとして、その本尊は漫荼羅(法本尊)か、仏像(仏本尊)か。
A 「仏法の根本は信を以て源とす」(日女御前御返事)とあるように、信仰は文字通り信の一文字か
  ら始まる故に、信ある人には題目・本尊共に力の源泉となります。しかし、信がなければ、ただ
  の呪文と紙にしか過ぎないことでしょう。これは信あり=上、信なき=下という人間の上下の問
  題ではなく、純然に「信あるやなしや」の観点です。
  「法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄)との教示に明白なように、私たちが手を合わ
  せる本尊は曼荼羅本尊であります。この教示を「仏像を安置して拝する清澄寺信仰圏への対機説
  法にすぎない」との解釈には無理があり、事実として日蓮大聖人が精魂を傾けて「作成」したの
  は仏像ではなく曼荼羅本尊ですから、本尊問答抄に教示したとおりのことを大聖人が実際に証明
  したということになります。

Q 世界広宣流布とは何でしょうか。
A 法華経の智慧・六巻
  名誉会長: 私は世界広宣流布を、一宗一派を広めようとか、そういう小さな考えでは、やってい
  ません。地球上で妙法を唱える人が増えれば増えるほど、必ず平和の方向へ行くのです。長い目
  で見ればわかります。もし核戦争が起きれば、地球は破滅です。特に、冷戦時代、第三次大戦が
  起きないとは、だれも保証できなかった。口はばったいような言い方になるが、私は「法華経」
  という「生命の宝塔」の教えを、世界に広めてきました。まだまだ緒についたばかりだが、流れ
  はできあがった。 戸田先生は「二百年先のために今、戦っている」と言われたが、私も同じ気持
  ちです。
  今の人類を、その子孫を、どう幸福と安穏の方向にもっていけるのか —- 。地球を背負っている
  ような気持ちで、行動してきた。その「青任感」に立った時、頭の中に「智慧の嵐」が吹き荒れ
  てきた。次々と先手を打つこともできたのです。

  ⇒先生が言われる「広宣流布は一宗一派を広めることではない」旨の言葉は重いですね。
  特定の会、宗派を広めて云々ではなく、「妙法を唱える人が増えれば増えるほど」が主眼なの
  です。もちろん日常の信仰での大御本尊根本は前提として、世界への展開という次元では、
  「一宗一派ではない」「地球上で妙法を唱える人が増えれば増えるほど」との思いは、
  平成5年5月3日のスピーチでの「大聖人の仏法の真髄である『久遠元初の法』を根本としてこ
  そ、永遠の妙法流布の道が開ける」との指導と通じるものがあると思います。
  先生のスケールが大きすぎて、私たちの方が追いつかないのでしょうね。地球を背負う思いで
  なければ分からないことなのでしょう。でも・・・連なりたいですね。