日蓮一門の身延入山に関する一考 2

2 なぜ鎌倉を去ったのか

日蓮大聖人の佐渡流罪赦免後の鎌倉滞在は、文永11年(1274)3月26日より5月12日までの2ヶ月に足らないものでした。4月8日に平左衛門尉と面談し、4月12日に鎌倉で吹き荒れた大風を加賀法印定清(阿弥陀堂法印)の祈祷と関連させて教理的に位置付けた後、「かまくら(鎌倉)に有るべきならねば、足にまかせていでしほどに」(高橋入道殿御返事)と鎌倉より身延山へ向けて出発します。

大聖人は自らを鎌倉にいるべき身ではないと判断した理由を、建治2年(1276)3月の「光日房御書」に記述しています。

ましていわうや日本国の人の父母よりもをもく、日月よりもたかくたのみたまへる念仏を無間の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頸をはねらるべしと申す上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給ひたりと申すほどの大禍ある身なり。此等程の大事を上下万人に申しつけられぬる上は、設ひそらごとなりとも此の世にはうかびがたし。いかにいわうやこれはみな朝夕に申し、昼夜に談ぜしうへ、平左衛門尉等の数百人の奉行人に申しきかせ、いかにとがに行なはるとも申しやむまじきよし、したゝかにいゐきかせぬ。されば大海のそこのちびきの石はうかぶとも、天よりふる雨は地にをちずとも、日蓮はかまくらへは還るべからず。

光日房御書

「是一非諸・法華勝諸経劣=既存仏教批判」「謗法即断罪」「宗教的論断=為政者の死後世界について」、これらを一門に語り鎌倉の民衆に知らしめたこと、平左衛門尉ら幕府高官に訴え語ったことなどを理由として挙げています。

これらによれば、自らの主張するところが聞き入れられれば鎌倉は日蓮法華一色、逆であれば謗法諸宗に満ちるということであり、大聖人にとって謗法諸宗と同じ鎌倉都市空間で居住するという中間的思考はなかったということになります。

このような宗教都市=法華経中心都市思想は日蓮大聖人の法華経に対する教理的解釈「仏と申すは三界の国主」(神国王御書)との「久遠仏三界国主論」、「娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり」(一谷入道御書)との「久遠仏娑婆世界領有論」の現実世界への投影によるものと考えられ、「久遠仏三界国主論・娑婆世界領有論」が法華最勝を鼓吹する活動の源となり、「久遠の仏を三界の国主とする」「娑婆世界は久遠仏の領地とする」即ち広宣流布の仏国土が活動の帰着点でもあったと考えられるのです。

(それを継承して現実に成そうとしたのが、日興上人の思想がうかがわれる「富士一跡門徒存知の事」での、「駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由・奏聞し畢んぬ、仍つて広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり」「駿河の国・富士山は広博の地なり一には扶桑国なり二には四神相応の勝地なり、尤も本門寺と王城と一所なるべき由・且は往古の佳例なり且は日蓮大聖人の本願の所なり」との記述であると考えます)

為政者の受持法華・帰命久遠仏により、日本国の宗教的国主として久遠の仏が崇敬されれば、国主・久遠仏の功徳力が満ちたる法華経の国となります。そして、その実現なければ全くの逆方向・破滅へと向かい「他国侵逼難」による「亡国」とならざるをえない、というものが「日蓮とその一門」の社会に対する認識の中心にあったものでしょうか。

特に「他国侵逼」は「近い将来現実的なものとなる」との危機感により日蓮一門の教説は先鋭化、対して他宗を信奉する鎌倉仏教界・民衆よりの反発・反動が起きれば更に日蓮一門の結束と活動の活発化を促すという循環作用により、鎌倉法華衆と仏教界・幕府の緊張関係は沸騰点に達して文永8年(1271)の「(体制側から見て)悪党・日蓮一派逮捕・取り締まり」、日蓮一門にとっての「文永8年の法難」に至ったものでしょう。

尚、建治元年(1275)6月10日の「撰時抄」には「権大乗経の題目の広宣流布するは、実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや。心あらん人は此れをすい(推)しぬべし。権経流布せば実経流布すべし。権経の題目流布せば実経の題目も又流布すべし」とあります。実際には、日本国全ての人が唱えてはいない南無阿弥陀仏が流布する様相を念仏の広宣流布として、法華経の題目広宣流布の序としていることにより理解できる「広宣流布とは直ちに全民衆の法華経受持を意味しない」ということに比べれば、鎌倉期の日蓮大聖人の主張は「日蓮法華以外の存在認めず」的な極端なようにも思えます。

これについては、鎌倉期では「幕府要路への立正安国論進呈後は権力との緊張関係が続き、覚悟の程がそのまま主張にも反映されただろうこと」「法華経の行者として対決すべき諸宗を眼前とし接触も多かったであろう故、謗法禁断の意を強くしただろうこと。特に極楽寺良観の存在が大きいか」、これらに加え「鎌倉は一国の動向を決する日本国の事実上の首都であり、そこでの法華経信仰の有り様が広宣流布・法華経の国実現への源であり、その盤石を期そうとした」などを要因としたものではないでしょうか。

このような経緯により、真言師などの異国調伏の祈祷の声満ちる鎌倉は、日蓮大聖人の居場所のない地となりました。鎌倉は門弟による継続的開拓の地、蒙古襲来による滅亡後の「法華経の国」への可能性が残されている地となって、大聖人自らの法華勧奨の地としては「終わった」ようです。