日蓮一門の身延入山に関する一考 1

  1. 身延入山に至る心情

「高橋入道殿御返事」(建治元年7月12日)に「たすけんがために申すを此程あだまるゝ事なれば、ゆりて候ひし時さどの国よりいかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども」とあるように、日蓮大聖人は佐渡流罪を赦免になったら配流地より直接、山中・海辺へ向かうべきと考えていたようです。

ですが、「此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候ひき」(同)と、真言の悪法たる所以を平左衛門尉に申し聞かせて、蒙古襲来後も生き残るであろう衆生を助けようと一旦は鎌倉に赴いています。続いて「申しきかせ給ひし後はかまくらに有るべきならねば、足にまかせていでしほどに」(同)と、平左衛門尉に言うべきことを言った後は、鎌倉にいるべき身ではないとして、足に任せて出発したと述懐します。

「いかなる山中海辺にもまぎれ入る」としていた大聖人が向かったのは身延山でした。関連する御書を確認してみましょう。

上野殿御返事 文永11年[1274]11月11日

抑日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども、日本国の上下万人一同に、国のほろぶべきゆへにや用ひられざる上、度々あだをなさるれば力をよばず山林にまじはり候ひぬ。

光日房御書 建治2年[1276]3月

本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。

南条殿御返事 建治2年[1276]閏3月24日

失もなくして国をたすけんと申せし者を用ひてこそあらざらめ。又法華経の第五の巻をもて日蓮がおもてをうちしなり。梵天・帝釈是を御覧ありき。鎌倉の八幡大菩薩も見させ給ひき。いかにも今は叶ふまじき世にて候へば、かゝる山中にも入りぬるなり。

報恩抄 建治2年[1276]7月21日

又賢人の習ひ、三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれということは定まれるれいなり

中略

それにつけてもあさましければ、彼の人の御死去ときくには火にも入り、水にも沈み、はしりたちてもゆひて、御はかをもたゝいて経をも一巻読誦せんとこそをもへども、賢人のならひ心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出づるならば末もとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず。

下山御消息 建治3年[1277]6月

此れ日比日本国に聞こへさせ給ふ日蓮聖人去ぬる文永十一年の夏の比、同じき甲州飯野御牧、波木井の郷の内身延の嶺と申す深山に御隠居せさせ給ひ候へば、

中略

国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし、用ひずば山林に身を隠さんとおもひしなり。又いにしへの本文にも、三度のいさめ用ひずば去れといふ。本文に任せて且く山中に罷り入りぬ。

日蓮大聖人は「国恩を報ぜんがため」を精神的支柱の一つとして、「日本国をたすけんとふかくおもへ」「日本国のほろびんを助けんがため」「国をたすけんと」、日本国が邪法興隆の帰結として他国侵逼・自界叛逆の亡国、乱国となることを防ぐ為に「国をいさむる」、即ち「立正安国論」を以て諌め妙法弘通、法華勧奨に励んだのですが、その答えは「用ひられざる上」「御用ひなく」「用ゐずば」「用ひずば」というものでした。

「三度までは諌暁すべし」と三度までは諌めたものの、「今は叶ふまじき世」という現実を認識し、結果として用いられることなかった教養ある仏教僧が次に取るべき行動は、孔子の「孝経・諌争章」に見られるような「三諌不納奉身以退」でした。それは「三度いさめんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに」と記すところからもうかがえます。そして日蓮大聖人は鎌倉を去り、身延に入山します。

身延に到着した当日、文永11年(1274)5月17日に富木常忍に報じた「富木殿御書」に、「いまださだまらずといえども、たいしはこの山中心中に叶ひて候へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一人になて日本国に流浪すべきみにて候」とあり、「報恩抄」の「遁世」、「下山御消息」の「御隠居」等と併考して「日蓮は幕府に用いられることなく敗北した」「挫折して身延に入山した」「漂泊者日蓮は遁世僧となった」等の解説もあるようです。

しかし、「遁世」「御隠居」とある「報恩抄」「下山御消息」では、世間の認識としての客観的な記述となっていて、それが大聖人の思いを表したものとは、直ちにはいえないと考えます。

「富木殿御書」は前にある「けかち(飢渇)申すばかりなし。米一合もう(売)らず。がし(餓死)しぬべし。此の御房たちもみなかへして但一人候べし」により、飢饉下にあって米一合の入手も困難な状況となり、自身と一門の食料確保にも窮し餓死が他人事と思えない事態となっていたこと、また蒙古襲来を眼前とするにも関わらず自らは山林へと向かう身であったことにより記述したと思え、この時の心中は確かに「挫折感」あり、「漂泊者」としての沈鬱なものがあったと思われます。

従来は個々の修行者・教養ある者の観念世界でしか、その「効能」が知られなかった「法華経」。日蓮大聖人は日本国の政体、顕密仏教を中心とした既存秩序というものを前提としながらも、「法華経世界」を現実の国土に置き換え、此岸を再確認・復興して「法華経信仰の寂光土」を顕現せんとしましたが、「用いられる」ことはありませんでした。

敗北感、挫折感と心中深く期するもの、絶望と希望、諦めと挑戦、陰的なもの陽的なもの、静的なもの動的なもの等、あらゆる作用と反作用を心中に同居させながら、大聖人は身延山に入ったのではないでしょうか。入山直後の5月24日に「法華取要抄」を執筆したこと、その後の書状、法門書などの執筆量、図顕曼荼羅の多さという結果から遡って考えれば、流罪赦免後より身延入山前の大聖人は心中深く、「新天地で日蓮法華信仰の完成を期していた」ということも考えられます。

時というものがとどまらず刻一刻と刻まれるように、周囲の環境、世の動向も止まることはなく絶えず変化していきます。この「時の動き・働き」が「静かなる日蓮」であることを許さず、それ以前にも増しての「日蓮が法門」完成への取り組みを促していきます。そして、それまでの自己が一切の矢面に立った妙法弘通・法華勧奨が因となったか、仏教の師から弟子への法軌通りか、これまた「新しい人を生み出す時の力」によるものか、師匠・日蓮身延入山よりは各地で「小日蓮」ともいうべき直弟子らの活発なる「専持法華」の主張と妙法弘通が行われ、8年と5ヶ月後の臨終の時には「一弟子六人」とその系統による「日蓮教団」が形成されるに至るのです。(2に続く)

                                      林 信男